資本主義道徳

功利主義者の息子を心配する母親

知人がInstagramの動画を共有してきた。インタビュアーがイギリス人と思われる12歳の少年と以下のようなやり取りをする。

インタビュアー:人生の指針として感情と理性どちらを必要としますか。

少年:片方が無ければもう一方は意味をなしません。感情だけでは何も成し遂げられませんが、かといって、一切感情がなければそもそも何もしないでしょう。

インタビュアー:大きくなった何になりたいですか。

少年:分かりませんが、科学者ですかね。

母親:この子は功利主義と相対主義の気があって心配しています。(子供に向かって)何とかしないとね。

12歳の子供が大人びた受け答えをするというのが面白いというフォーマットであるが、最後の母親のコメントは異質である。功利主義と相対主義の何がいけないのだろうか。

思うに、この母親は知性の限界を自分の人生を持ってして痛感したに違いない。この少年は「頭」では感情について理解しているが、実際には感情的ではない。功利主義とは理性から感情を引き出す試みであるが、それが本物の感情に敵うことはない。この世でも最も幸福で生産的な人間は、職業人として要求される知性の度合いに関わらず、動機の点では全くもって不可解である。

フロム『愛するということ』

最近「ギバー」「テイカー」のような言葉をよく見かけるが、これらの言葉の持つ浅はかさはその功利主義的側面にある。つまり「資本主義的成功のために」というカッコ付きで、人に施せといっているのである。このような軽薄さは営利企業における熱心なDE&Iにも共通している。

現代は、道徳のふりをした処世術に溢れてるが、フロムはこのような功利主義的態度を1956年のベストセラー『愛するということ』で鋭く批判している。

現代人は自分を商品化してしまった。自分が生命力を使うことを投資とみなし、自分の地位や人間の市場の状況を考慮しながら、その投資によって最大限の利益をあげようと必死になっている。現代人は自分からも、仲間からも、自然からも、疎外されている。現代人の最大の目標は、自分の技能や知力を、そして自分自身を、つまり「人格のパッケージ」を、できるだけ高い値段で売ることである。相手もまた、公平で有利な交換をしようと血眼になっている。人生にはもはや、前進する以外に目標はなく、公平な交換の原理以外に原理はなく、消費以外に満足はない。

つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛せない。

フロムは、愛を適切な対象から自然に発生するものではなく、修練を必要とする能動的な「技術」であると定義する。ところで、フロムによる帰結はまるで現代のマインドフルネスのようであり興味深い。

現代社会では、誰もが集中に逆らって生きているように見える。集中力の習得においていちばん重要なステップは、本も読まず、ラジオも聴かず、タバコも吸わず、酒も飲まずに、ひとりでじっとしていられるようになることだ。実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。(中略)リラックスして椅子にすわり、目を閉じ、目の前に白いスクリーンを思い浮かべ、邪魔してくる映像や想念をすべて追い払って、自然に呼吸をする。呼吸について考えるのでもなく、無理に呼吸を整えるのでもなく、ただ自然に呼吸をする。そうすることによって、呼吸が感じられるようにする。そこからさらに「私」を感じとれるように努力する。私の力の中心であり、私の世界の創造者である私自身を感じとるのだ。(中略)他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをしては、助言すら与える。相手の話を真剣に受け止めず、したがって真剣に答えない。その結果、会話しているふたりはどちらも疲れてしまう。そういう人にかぎって、集中して耳を傾けたらもっと疲れるだろうと思いこんでいるが、それは大まちがいだ。どんな活動でも、集中してやれば、人はますます覚醒し、その後には、自然で心地よい疲れがやってくる。 エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳

フランクフルト学派の歴史的意義

フロムはフランクフルト学派1の主要人物の一人であり、ベンヤミンと並び、日本でも広く愛読されている。フロムの理解には、フランクフルト学派の歴史的な位置を把握することが役に立つ。

ヘーゲル以降、実証主義的な個別科学の進展のなかで、ヘーゲル的な全体性、個人を超えた社会の発展のダイナミズムを捉える視点は失われていった。新カント派以後の思想の流れのなかで、ふたたび新たな社会哲学がもとめられている。(中略)ホルクハイマーは、三つの領域の結びつきを探究する必要があると言います。すなわち、(1)社会の経済的生活、(2)諸個人の心理的な発達、(3)狭義の文化の領域における変化、です。(1)の経済がマルクスの思想と深く関わるのに対して、(2)はフロイトの思想と繫がってゆきます。さらに(3)は文学、音楽、映画などの分析をつうじた文化論としての展開を予想させます。 細見和之『フランクフルト学派』

70年近く前のフロムの文章が今でもこれほどのアクチュアリティーを持つのは、勢いを増す資本主義の個人の心的発達への影響が、いよいよ自覚不可能なほど当たり前になっているからである。だから、経済合理性と利他主義が渾然一体となった軽薄な行動指針を違和感なく受け入れてしまう。

功利主義や相対主義は一見成熟した人間の証のようであるが、G+ΔGやr>g以外を信じることができない現代人にとって、むしろ最も簡単に到達できる大した価値のない帰結である。だから冒頭の母親は息子の将来を憂えて然るべきなのだ。


  1. フランクフルト学派の出身者の多くは裕福なユダヤ人であり、ナチスの政権掌握後その多くは亡命し、活動の拠点をアメリカに移す。これがアメリカの新左翼の起源となり、マルクス主義を拡大解釈したものが現代のアイデンティティポリティクスやキャンセルカルチャーの一端である。 ↩︎