モチベーションのソフトウェア

先日、カナダの現地校で小学2年生になる娘の三者面談があり、担任の先生に授業中のお喋りについて軽く指摘される場面があった。日本であれば「すみませんうちの娘が」とでも言うところだろうか。しかし、この紋切り型のコミュニケーションが高度に文化依存であり、外国でこのように言ったところで期待するような、つまり「まともな家庭」の印象を与えることができるか怪しいし、そうだとしてもそれが適切であるとも限らない。結局、私はあまり取り乱さず、その場をやり過ごすことにした。

子供を育てる上で「価値」への言及は避けては通れない。それは、私が、私の親が、私の先祖が、そして私が生まれ育った文化圏が信じた最適な生存戦略である。そして、日本人としてのそれは一般的に「回避的」な傾向を持つ。「そんなことをしたら恥ずかしいよ」とか「まわりに迷惑だよ」といった類のことをモチベーションに用いて躾をしている自分に気づく。

モチベーションとは不思議なものだ。そもそも人はなぜ「何か」をするのか。「あの人はヴァイタリティがある」などと気軽に言うが、そういう言葉の対象となる人は何を信じているのだろうか。家庭という閉じた環境で子供と接していると、自分は子供にその将来の限界を決定する「モチベーションのソフトウェア」の少なくとも一部をインストールしているような気になる。このソフトウェアはミームとして、世代から世代へと受け継がれ、ひいてはその文化集団自体の限界や運命として現れる。私自身のニヒリスティックな傾向を子供に引き継いで欲しいとは露も思わない。それは、世界を生きていく上で不利なソフトウェアであり、それゆえに弱いミームである。

タンパク質の塊が「意味」のある人生を送るために、どんなモチベーションが最適だろう。それは、揺るぎない自己肯定感、共同体への帰属意識、超越的な存在の確信、何かへの自閉的な執着、資本主義、それともはたまた私の理解を超えた何か別のものだろうか。