フィクションの存在意義

世間一般に文系に属する学問、哲学、歴史学、マクロ経済学などは、普遍的な問いを扱うことができるが、低い実証可能性を持つ。対して、理系に属する学問は実証可能であるが、局所的な現象を扱う。ヴィトゲンシュタインに代表される、多くは20世紀初頭のウィーンの哲学者、論理学者たちは、前者と後者を統合することに腐心した。日常の言語は論理的でなく、実証可能な形で表現できる命題は極めて限定的である。日常の言語で語られるノンフィクションの多くは実証可能でないが、信憑性のため、部分的に科学的な議論を持ち込むせいで疑似科学の汚名を着せられる。

この私の文章もなんらかの主張を含むようだが、実証可能ではない。実証可能でないことは意味がないのだろうか。実証可能でない事柄を、疑似科学の謗りを免れながら表現することはできるだろうか。フィクションはその一形態だ。フィクションはそのフレームメッセージの中に「内容の正しさ」を必ずしも含まない。オーウェルやハクスレーの小説は、むしろ誤った世界を図として描くことで、地としての理想的な世界を浮かび上がらせる。主張が明示されていないこと自体がフィクションの定義の一部であり、作者の意図が見え透いたフィクションは野暮と見做される。主張が前景化するにしたがって、ノンフィクション・擬似科学の性質を帯びてくるとも言える。

最初のテーマがそのまますんなりと、明確に知的に言語化できてしまえれば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってしまうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでいるのだということになります。(中略)効率の良くない回りくどいものと、効率の良い機敏なものとが裏表になって、我々の住むこの世界が重層的に成り立っているわけです。 村上春樹『職業としての小説家』