現実主義と正当化

政治的思想とは、より低次のレベルに現れる人間の嗜好に対する事後的な合理化である。何らかの理由でまず最初に「そう思ってしまう」のであり、それに合理的な説明を与えるために証拠を探す。この合理化の試みは必ず成功する。なぜなら、ありとあらゆる考えに、それに正当性を与えるような理論が必ず存在するからである。1つや2つオンライン上の記事を参照し、それを元に相手を論破したことにする人間がいるが、相反する思想を持ったその相手もまた、全く同じことが可能であることを忘れている。ジョナサン・ハイトもこれと同じようなことを述べている

政治的思想の根源となる、その「低レベル」のものは何かというと、おそらく脳の物質的要素に還元される。しかし、そこまで低い次元となると、単なる決定論に帰されてしまうので、もう少し高次のものとして「現実の正当化」を挙げたい。

例えば、現在進行中のパレスチナ問題の左派的な解釈は、ハマスの残虐行為は「いかなる理由にせよ」肯定できない、というものだろう。一方で、右派的な解釈は、ガザ地区の非人道的なレベルでの過酷な生活環境が「帰結として」今回のような大惨事を招いたのであり、イスラエルにも非がある、というものだろう。このような対称性を持った議論は繰り返し出現する。左派はナチスドイツをいかなる理由でも正当化しなだろうが、右派はこの遠因を第一次大戦の戦後処理、つまりヴェルサイユ条約やその結果としてドイツに課された多額の賠償金に見るだろう。

右派は現実主義的であり、現在を過去の必然的な帰結と捉える能力に長ける。これは、異なる現象間に関連性を見出すことであり、それなりの事前知識を要する。一方で、それは物理法則ほどには密接な因果関係を持たないので、常に程度の差はあれ、恣意的である。さまざまな現象を観察し、そこから帰納的に一定のパターンを見出すことは人間の本質的能力であるが、これが暴走すると統合失調や陰謀論者ということになる。つまり、あまりに異なった、あまりに多くの現象間に関係性を見出してしまう。

丸山眞男は1952年に再軍備に反論する文脈で以下のように述べているが、これは保守派の正当化能力に対する鋭い批判である。

現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(中略)知識人の場合はなまじ理論をもっているだけに、しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化し正当化する理屈をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈伏が屈伏として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に堪えきれずに、そのギャップを、自分の側から歩み寄りによって埋めていこうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果てしない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈伏はもはや決して屈伏として屈伏として受け取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。 丸山眞男『「現実」主義の陥穽』