なぜこれほどまでに不安か

私は身の回りのあらゆることに対する「不調」に対し病的に繊細である。我々の生活は非常に複雑なシステムの安定を前提として成り立っており、その一部が壊れる方法は文字通り無限に存在する。自宅の暖房や冷蔵庫等の生活に必須のメカニズムが明日も機能するとは限らない。そして、仮にそれらが正常に動作しなくなった時、責任を負うべき人間が然るべき対応を迅速にとるとも限らない。大家はその問題を解決しようとするだろうか。やってきた修理工は問題を発見し解決することができるだろうか。明日車のエンジンがかかるかどうか分からない。さらに悪いことに、走行中に突然故障するかもしれない。そのリスクは予期せぬ金銭的な出費であればまだ良いほうで、最悪の場合自分や家族の命である。子供達が健康に成人を迎えれることを保証するものは何もない。雇用主が会社から、大家が家から、明日にでも私を追い出すことは可能である。法律は我々をある程度守ってくれるだろうが、それ自体を利用するための心理的、金銭的コストは無視できない。

こうした無数のシステムの上に成り立つ我々の人生の安定は確率的なものでしかない。できることといえば、リスクの確率を下げることであるが、確率が0に近づくにつれてそのコストは指数的に増大する。車が全損したり、家が全焼したり、自分や家族が大病を負ったり、仕事を失ったりした際のインパクトを軽減する方法には、高額の保険に加入する、検査やメンテナンスを頻繁に行う、もしくは冗長化のためにあらゆるものを複数所有するなどが挙げられる。これらは発生する確率の低い、それでいて致命的な事象の発生に賭ける行為であるから、通常期待値はマイナスである。

システムは通常それが生活に占める重要度に見合っただけの信頼性を持つ。可能であることと、実際に考慮すべきことを混同することは非科学的であり、現代では精神の不調として扱われる。陰謀論は、論理的な誤りというより、確率を高く見積もり過ぎた結果である。「ほぼ」あり得ないことに賭ける行為である。とはいえ、楽観主義が正解かというとそうでもなく、確率を低く見積もりすぎるのも問題である。毎日のように多くの人が簡単に予測できたであろう問題によって困窮している。リスク管理の難しさは、その正しさを確信できることはないところにある。低い確率に賭け、それが上手くいったとして、それは正しい選択だったと言えるだろうか。結果がどうであれ無謀だったのだから、愚かな行為であったことに変わりないのだろうか。

中井久夫は現代社会の強迫症親和性について以下のように述べている。

私はここで人類が狩猟採集段階から山地農耕段階へ進み、いくつかの中間段階を経て工業化社会に至るのが進化だと考えているわけでもなく、その逆に狩猟民を美化するつもりもない。言えることの一つは、技術の一身具現性においては最古の段階がきわだって卓越していることで、現代はこの一身具現性を犠牲にしてかつての身体の持つ技能性をことごとく外化させた(だから、裸のわれわれはどうしようもない抜け殻的存在だ)。しかし、この過程、戦争を生み階級を生み地球表面の大規模な破壊を行なった過程は、はたしてホームランであるのかホームランとまがう大ファウルであるのか。人類はいくつかの本質的倒錯をへて人間となったのであり、ヴァレリーの『ロビンソン寓話』によれば一種の(自然界の)贅沢、倒錯、逸脱であって、この大いなる倒錯に比すればあるいは分裂病の〝倒錯〟など問題にならぬかも知れないことを、稀れには思いみてもよいであろう。 中井久夫『分裂病と人類』

あらゆる問題はいつでも発生し得る。実際我々が依存するシステムの数はあまりに多く、どれかは常に壊れている。システムの分業と高度化は、個々人の生活に対する影響力を極めて限定し、また、我々を「修繕し続ける存在」へと押しやった。精神衛生を保つためにできることは、できる限り期待値を最大化し、ヘッジされていない日常の些細な異常に関してはそれを受け入れ黙々と対応していくことだろう。