語りえぬものについて語る

哲学の特色の一つにその「全体」への志向がある。

自分とか特定の個人に限定されることなく「すべて」にあてはまる何かを見いだそうという志向である。個別のものに拘泥することなく全体を問う〈全体志向〉といえよう 貫成人『哲学マップ』

Joscha Bachはとあるインタビューの中で、自国ドイツの哲学者について以下のように述べる。

Nietzsche … is trolling himself because he was at odds with the world. Largely his romantic relationships didn’t work out. He got angry and he basically became a nihilist … Steppenwolf syndrome is classic adolescence where you basically feel misunderstood by the world and you don’t understand that all the misunderstandings are the result of your own lack of self awareness. Because you think that you are a prototypical human and the others around you should behave the same way as you expect them based on your innate instincts … you need to become unimportant as a subject. That is, if you are a philosopher, belief is not a verb. You don’t do this for the audience and you don’t do it for yourself.

全体について語る哲学の中で、その特殊な例である自分や他者の存在が意識されてはならない。これは帰納的な大陸哲学への鋭い批判である。ニーチェの思想は彼の固有の人生と密接な関係があり、そこから普遍的人間像を導き出すことは難しい。そもそも哲学的思考に没頭する種類の人間自体が普遍性を欠いており、そういう特殊な人間の構築した理論に普遍性があるかどうかは疑わしい。

あらゆる考えは、それが表現された瞬間に誤謬の塊となる。そこには論理的な矛盾があり、実証不可能な命題があり、誤った参照がある。ニーチェを参照したこの文章は「ニーチェに関する正しい文か」という命題の対象となる。それを精査するには、ニーチェの研究を生業とする人を必要とするかもしれない。また、そのような人でもニーチェに関する全ての情報にアクセスできるわけではない。ニーチェ本人でさえも彼自身の全ての記憶にアクセスできるわけではなく、また時間と共に内部状態が変化する存在として、必ずしも自身に関する命題への一律の答えを持っているとは限らない。

それでも、ニーチェの思想がそうであるように、そうした誤謬にも関わらず、ある程度の普遍性を持つものがある。特定の時代を生きる者のメンタルモデルとして、あらゆる代替物より強力であるものがある。インターネットによって種々様々な人間同士の議論が顕在化されたが、それは基本的に相手の誤りを見つけることであり、それは「常に」可能である。コミュニケーションの目的のレベルは複数あり「正しい情報を発する」というのはその一つにすぎず、それが挫折したからといって他のレベルの目的までもが損なわれるわけではない。

おおよそあらゆる意味のありそうなものというのは、正しくなく検証可能でない。例えば、広範な知識を持った、古典的な意味で知識人と呼ばれるような人がそれらの知識を恣意的に関連づけて普遍的な「物語」を創作したとする。こういう人はその検証不可能なアイデアの提出によって、専門家としての地位を剥奪され異端としての扱いを受ける。疑似科学と呼ばれる。

哲学やその他日常的な言語が正しくあり得るかというのは、目新しい話題ではない。ヴィトゲンシュタインはそうした試みを行った代表的な人物であり、『論理哲学論考』の中でかの有名な「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉を残した。しかし、我々が「意味」を見出せるようなものは悉くそうした語りえぬものから発生するように思えてならない。