2.5年 / キルケゴールとドーパミン
2.5年。社会人以降を振り返ると、ちょうどこの周期で仕事か住む国を変えている。どうやらこれは僕が飽きずに同じことができる時間の限界らしい。もうすぐ4周期目の終わり、つまり社会人10年目に差し掛かる。僕はやはりまた次のことを考え始めている。
去年の秋、長距離列車でベルリンからアムステルダムを訪ねた。国境付近を通過中にどうしようもなく腹が減り、車内の売店に立ち寄ったが、よく考えると店員が何語を話すのか分からない。そもそも英語以外の外国語はできないのだが、こういうときに何の断わりもなく下手な英語で話しかけるのはいつも決まりが悪い。嫌な顔をされることも珍しくないが、このときの初老の店員は抜群に愛想がよかった。商人らしいしたたかさではなく、心から満ち足りている人間の愛想の良さだった。一見退屈そうな仕事をしていても心が豊かな人がいるのだ、と妙に感心した。
僕はというと仕事や住む土地を転々とし、それでもなお飽き足ることがない。この慢性的な不満足感は幼い時からのつきもので、これを長らく美徳だと思っていた。コカ・コーラ社の元社長はオスカー・ワイルドの “The world belongs to the discontented” という言葉を好んで引用したらしいが、こういう話を聞くと痺れたものだ。あの「不満足なソクラテス」にしたって、これの一種のバリエーションといえないだろうか。なんにせよ、僕にとって幸福というのは自己欺瞞とほとんど同義だった。
だが、誰でも歳を重ねるごとに「いまここ」を生きる尊さが分かるようになる。刺激を得ては退屈しを繰り返す享楽的な人生をキルケゴールは美的実存と呼んだ。「あれも、これも」の美的実存の行き着く先は絶望である。一方「あれか、これか」の選択と、それに伴う義務を果たす人生は倫理的実存と呼ばれ、キルケゴールはこれを美的実存より高次なものとした。既婚と未婚、育児と仕事、田舎と都会。「いまここ」と「ここではないどこか」の対比は色々な所に現れる。
どうすれば虚しい未来志向から脱却し、豊かな現在を生きることができるだろうか。21世紀にサイエンスっぽい仕事をする、唯物論が骨の髄まで染み込んだ人間の一人である僕は、もはや大陸哲学を必要としない。心や社会の問題の多くは今や科学の領域であり、人間の性格は遺伝的傾向と化学物質の多寡に還元される。
ダニエル・Z・リーバーマンの2018年の著書『もっと!愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』によれば、この際限のない刺激の追求と、既に獲得した物に対する無関心はドーパミンがもたらす傾向らしい。一方で、現在の知覚や感情から幸福を得るには、セロトニン、オキシトシン、エンドルフィンといった物質が欠かせないそうだ。
dopamine activity is not a marker of pleasure. It is a reaction to the unexpected—to possibility and anticipation.
Dopamine, the neurotransmitter whose purpose is to maximize future rewards
They are obsessed with making the future more rewarding at the expense of being able to experience the joys of the present.
実存主義者たちの苦悩をドーパミン気質として一蹴するのはなんとも情緒に欠けるが、実存主義という言葉が生まれて200年も経つのだから仕方がない。そろそろポストモダニスト風の不幸自慢も卒業しなければならない時が来たのであろう。