客観的な成功、主観的な幸福
不幸であることの価値がここ最近はめっきりなくなってしまったようだ。
昔から客観的な成功と主観的な幸福は相反するものだと思ってきた。自分が物心つき始めた頃から活躍していたスターというと、イチローなりタイガー・ウッズなりマイケル・ジャクソンなりと、どうも幸せになるのが下手そうな人ばかりで、成功は埋まることのない心の隙間を癒やすための活動の過程で生じるものだと考えるのは自然なことだった。
音楽であれ文学であれ科学であれ、20世紀以前の発展の歴史を見ると心身ともに荒んだ人間のオンパレードである。例えばジャズのような音楽が人種差別や薬物依存の悲劇なくしてあり得たのだろうか。
誰もが知っているJ・S・ミルの「不満足なソクラテス」だってそうだ。高みを目指すことと不幸は表裏一体であるというのは社会の暗黙知だ。おめでたいやつはいつも大したことをしない。
そんな折、ポジティブ心理学では有名なShawn Achorの"The Happiness Advantage"1を読んでいるとこんなことが書いてあった。
… the impressive meta-analysis of happiness research that brought together the results of over 200 scientific studies on nearly 275,000 people—and found that happiness leads to success in nearly every domain of our lives, including marriage, health, friendship, community involvement, creativity, and, in particular, our jobs, careers, and businesses.
この本の主張は端的にいうと「成功しても幸福になるわけではない。その逆で、幸福な人間が成功する」というものだ。幸福な人間のほうが上手くいくって?世の中そんなに単純じゃないだろうと思う一方で、言われてみると確かに不幸な人間の歪んだサクセスストーリーはたいして流行らなくなった気もする。
理由はよく分からない。社会の変化が早くなって、芸事でさえコンスタントに生産性が高い人間にしかできないようになってしまったのかもしれない。躁鬱質のナルシスト達はどこへ行ってしまったのだろうか。
邦訳もあるようだが訳題がおぞましいので紹介しない ↩︎