書評: ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

社会はなぜ左と右にわかれるのか amazon.co.jp

評価: ★★★★★

我々がアメリカの混乱を目の当たりにしているように、社会の分断はますます顕著になっている1

社会心理学者であるジョナサン・ハイトの2012年の著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか―対立を超えるための道徳心理学』2は、文化人類学や心理学を用いて、左派と右派の分断を論じた名著だ。本書は、どちらが優れているかではなく、分断の起源の科学的な理解に重点を置いている。「なぜ我々がこのようであるのか」というメタレベルの認識によって、対立する陣営を自分の盲点として捉え、健全な中道に至ることができるというのが本書の主張である。

When I was a teenager I wished for world peace, but now I yearn for a world in which competing ideologies are kept in balance, systems of accountability keep us all from getting away with too much, and fewer people believe that righteous ends justify violent means. Not a very romantic wish, but one that we might actually achieve.

今後も何度も見返したい内容であるため、以下で要点を整理していく。

政治は感情

政治的な発言は、まず直感・感情的に評価され、理由付けは後から行われる。現代科学が明らかにした人間の倫理モデルはプラトン的な理性主義ではなく、ヒュームの感情主義(「理性は感情の奴隷である」)だった。いわば、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』の政治版で、2010年代からの認知心理学の主要な流れの一つである。

ファスト&スロー(上) amazon.co.jp

ファスト&スロー(下) amazon.co.jp

直感的評価は対象に対する親近感や匂い等の身体的な反応に左右され、論理的思考はその正当化に利用される。高い論理的思考能力は必ずしも包括的な議論の助けにならない。なぜなら、あらゆる事柄に対して常に(非科学的なものも含めて)何らかの理由付けが可能だからだ。どんな思想であれインターネットで調べれば、それを支持するような情報が見つかる。

つまり、人間は信じたいものを信じ、常にそれを正当化できる。

6つの道徳基盤と遺伝的要因

ベンサムカントは倫理学における二大巨頭である。前者は最大幸福原理に代表される計算によって、後者は理性から導かれる普遍性によって道徳規則が導かれると提起した。ハイトはこれらの理論が、現実社会の「記述的」理解としては過度に自閉的で感情的な側面に欠けていると主張する。

では、現実世界を反映した道徳のモデルとはどのようなものだろう。ハイトは道徳基盤をケア・自由・公正・忠誠・権威・神聖の6つに分類する。味覚の受容体のように、どの基盤に敏感に反応するかには個人差があり、その差が政治的スタンスの差となる。リベラルはケア・自由・公平に、リバタリアンは自由・公平に、保守は全てに反応することが実験によって明らかになった3

そもそもこの差はどこから来るのだろうか。マルクス以降の政治理論によれば、それは私欲の追求だった。富めるものは体制を維持しようとし、貧しいものはそれを打破しようとする。しかし、現代社会において、社会的な階級とイデオロギーの関連は薄い。大企業経営者と地方の労働者はどちらも保守的な傾向があるし、新興テックの資本家と都市部の労働者はともにリベラルであることが多い。そこから、20世紀後半になって「白紙状態」という考え方が注目される。つまり、教育やメディアによってイデオロギーが後天的に決まるというものだ。

しかし、1980年代に双子を用いた研究が遺伝の支配的な役割を明らかにする。別の家庭で育った一卵性双生児に、政治的嗜好も含め、多くの共通点が認められた。様々なDNAの分析の結果、脳の神経伝達物資に影響を与える遺伝子が発見され、特にグルタミン酸、セロトニン、ドーパミンの量の差が脅威と新規性に対する反応に影響を与える。保守は脅威に敏感に反応する傾向が、リベラルは新規性を求める傾向があることが知られており、これらから遺伝と政治的嗜好の関連性を導くことができる。

ネズミやゴキブリと同じく雑食動物である我々は、新しい環境下で食べ物を見つけることができるというアドバンテージを持っている一方で、食料として不適切なものを摂取してしまうリスクもある。この「雑食動物のジレンマ」を回避するために、人間は新しいものへの畏怖と好奇心の適切なバランスをとる必要があった。

遺伝子の群選択

個々の性質に遺伝的な差があることは分かったが、なぜ人々は同じ信条を持った排他的なグループを形成するのだろうか。ハイトは、遺伝子の群選択があるという立場でこれを説明する。マルチレベル選択説によれば、遺伝子の淘汰は個人レベルだけでなく集団のレベルでも起こる。つまり、利他的で協業に長けた種族が、利己的なメンバーで構成された種族を生産性で凌駕し、置き換えるという考えだ。人間は「基本的」に利己的だが、この群選択によりわずかに利他的でもある。この二面性を指して、ハイトは「人間の90%はチンパンジーで10%は蜂である」と主張する。

遺伝子の群選択の生物学的な証拠となり得るものの一つはオキシトシンだ。オキシトシンはホルモンの一種で、脊椎動物のメスの子育てにおいて重要な役割を果たす。オキシトシンは子宮の収縮と排乳を促し、また母性の源となる。人間は進化の過程でこれをグループ内での結束のために再利用していると考えられる。信頼のおける行動や、他人が苦しんでいる映像を見ることでオキシトシンのレベルが増加する。

ミラーニューロンも群選択の要因となりそうだ。他人の特定の動作が、自分が同様のことを行う際に必要な脳の領域を活性化させることが知られている。これは特に感情を司る領域に顕著で、笑っている人を見ると自分も幸せになるように、人間の共感性において重要な役割を担っている。

この人間の利他性は、あくまで自分の所属する集団に働く「限定的」なものであり、時に排他性として現れることがある。しかし、農耕や牧畜をはじめとする人間の共同作業を可能にしてきたという正の側面もある。

進化の速度

遺伝が人間の道徳基盤に影響を与えるとすれば、そのような進化はどれくらいのタイムスケールで起きるのだろうか。ドミトリ・ベリャーエフは従順なキツネ同士を意図的に選択して交配させる実験を行った。2-3世代でキツネの従順な傾向が強化され、9世代以降になると白い毛、小さな顎、丸まった尻尾といった犬に見られる特徴が現れ、30世代以降は家庭動物として飼育できるほど従順となった。

もちろんこのような作為的な交配は人間では起こらないが、ハイトは人間は自らが作り出した環境の中で生活するという特性に注目し、文化と遺伝子が相互に影響を与えあうことで、10,000から50,000年のスケールで遺伝的変化が現れ得ると結論づける。

それぞれの正しさ

ここまで見てきてように、我々の政治的嗜好はある程度科学的に説明可能であり、我々の本質は盲信的で排他的である。こうした前提のもとで、異なる政治勢力間の建設的な議論はそもそも可能なのだろうか。ハイトは左派・右派が相互に補完的であるとし、それぞれの正当性を論じる。

リベラル

政府が何らかの形で巨大な組織活動を規制する必要があるという点でリベラルは正しい。全ての情報が開示されない限り、企業にとって善行のために利益を犠牲にするインセンティブはない。

1950年代から60年代にかけてのアメリカの自動車所有率の急上昇に伴い、深刻な公害の原因となった有鉛ガソリンは、規制により1990年代には完全に姿を消した。鉛は脳の発達に深刻な影響を及ぼし、有鉛ガソリンの規制が1990年代の急激な犯罪率の低下に繋がったという見解もある。確かに、功利主義的な観点では誤りとなる極端なリベラリズムもあるが、行き過ぎた企業の利益追求を公益のために制限する役割が政府に必要なことは間違いない。

リバタリアン

市場における自由競争、つまり「見えざる手」の評価においてはリバタリアンが正しい。

David Goldhillによると、年間10万人近くが病院内での感染症でなくなっており、病院が簡単な衛生基準を遵守するだけで、その数は2/3程度になるとされる。彼の主張は、過剰なヘルスケア制度が適切な価格競争を阻害し、サービスの低下を招いているというものである。例えば、保険の適用外であるレーシック手術の分野では、医師の間で過酷な競争が行われ、当初に比べると80%近くのコストダウンが行われた。

保守

遺伝子の群選択により、利他的な構成員による排他的で協業に長けた集団が生き残った。人間は本質的に、宗教、国家、イデオロギー、スポーツ等への帰属意識を必要とする動物であり、むやみに均一な社会を目指すことが人間の幸福に繋がらないという点では保守に軍配があがる。また、こうした集団による協業が様々な不可能を可能にしてきたことは無視できない。

ロバート・パットナムによって有名となった社会関係資本は、社会の結束度を効率性を高める資本として見る考え方だ。例えば、厳格なユダヤ教徒による宝石商ネットワークがあり、非常に効率的なことで知られている。これは共通の価値観が、取引や監視のコストを限りなく小さくすることで成り立っている。多様性はこのような倫理的資本とトレードオフの関係にある。

私感

ページ数の多い本であるが、以下が特に重要なポイントである。

『人間は分かりあえるのか』で吐露したように、ヨーロッパのプログレッシブな社会に違和感を感じ、自分の保守的な傾向を再発見することになった。筆者はベルリンに住んでいるが、ここでは同性愛者で菜食主義の環境活動家といった典型的なリベラルに遭遇することは珍しくない。こういう人々を観察していると、実は政治的主張に限らず衛生基準、審美感覚、生活様式等、何から何まで異なることが多い。何か根源的なレベルの差異がまずあって、保守かリベラルかというのはその差異の現れ方の一つでしかないという仮設をぼんやりと持っていたが、本書はそれに科学的な裏付けを与えてくれた。

以下は、本書から得た私的なインスピレーションである。

認知のアップデートの必要性

ここ数年の認知心理学は、人間の非合理的な側面を繰り返し明らかにしてきたが、我々の自己認識やコミュニケーションのあり方はそれに即してアップデートされていない。政治の議論はそれが顕著で、各々が自分の主張を繰り広げることで合意を形成しようとするが、これは大きな誤りである。「はじめに差異ありき」のハイトの理論は、これからの政治の議論におけるベースラインとなるべき考え方だ。我々は我々が信じるものを信じるように生まれてきたのであり、他者は本質的に盲点である。

We are multiple from the start. Our minds have the potential to become righteous about many different concerns, and only a few of these concerns are activated during childhood. Other potential concerns are left undeveloped and unconnected to the web of shared meanings and values that become our adult moral matrix.

このような考え方は直感に反しているが、ダーウィニズムやビッグバンのようなものでさえ数十年、数百年かけて広く受け入れられるようになったことを考えれば、我々の自己理解も時間とともに少しずつ改善されていくのだろう。

メディアの失敗とインターネットの未来

TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアは様々な可能性を開いた一方で、議論の場としては最悪と言ってもよく、分断を顕著にしている一因であることは間違いない。資本主義上に形成されたプラットフォームは閲覧されやすい、つまり過激なコンテンツを優先して出すことにインセンティブがあり、結果として極端な主張が目立つようになった。カーネマンによれば、我々には認知容易性(cognitive ease)という認知バイアスがあり、繰り返し現れるものにポジティブな印象を持つ傾向がある。受け入れがたい極端な主張でも、アルゴリズムがそれを増幅させることで、少しずつ人々の意識に影響を与えていく。

具体的にどのようなものかは想像できないが、ブロックチェーンを用いた非中央集権的でフェアなソーシャルネットワークがやがて出現するかもしれない。

ラベリングの危険さ

リベラル・保守という言葉は多義的である。例えば、現代の保守で啓蒙主義的でない者はほとんどいないだろう。今日の保守は、数百年前のそれから見れば十分にリベラルである。リベラルにしても同じで、過激な活動ばかりが目立つが、環境保護や男女・人種の平等自体は保守から見ても妥当な主張である。

ラベリングによって、我々は相手をそのグループの典型として捉えてしまう。政治勢力は、実際は幅広いスペクトラムであるが、ラベリングはその多様性に対する目を曇らせる。本来リベラルであるハイト自身も、かつては「保守=宗教=科学の否定」という印象を持っていたと告白しているが、多くの保守からすればこれはとんでもない誤解であろう。

As a lifelong liberal, I had assumed that conservatism = orthodoxy = religion = faith = rejection of science. It followed, therefore, that as an atheist and a scientist, I was obligated to be a liberal.

保守・リベラル・右派・左派という言葉の利用に我々はもう少し慎重になるべきだろう。

格差とネオ・マルクス主義

資本主義による格差は無視できないところにまで到達しており、COVID-19はそれをより顕著にした。保守の盲点は、こうした実際の人間の苦しみに鈍感な所だろう。一方で、アイデンティティ政治に形を変えた新たなマルキシズムは非常に危険な兆候を示している。

保守とリベラルは、突き詰めれば変化の負の側面に敏感なグループと正の側面に敏感なグループであり、どちらもある程度は正しい。我々は20世紀に共産主義と全体主義の両極の恐怖を体験したはずだ4。政治を、終わらせてはいけない綱引きのように捉え、力強い中庸を育むことが重要である。アンドリュー・ヤンのような中道派の活躍が期待される。

日本の未来

サミュエル・P・ハンティントンは世界を8つの文明に分け、その中で日本を単一の文明圏とみなした。ロナルド・イングルハート世界価値観調査でも日本は世界で最も高い世俗性を示し、その特異性が明らかにされた。

日本の相互監視的な社会は自虐的に捉えられることが多いが、これは本来宗教的な協業を要する農耕民族が世俗的でいるための苦肉の策と考えることもできる。文化・人種的多様性の少ない日本は先に述べた高い社会関係資本を持っており、サービス産業のレベルの高さはこれに支えられている。

日本の経済は衰退の一途だ。外国人労働者が増えるかも知れない、はたまた国外に職を求める日本人が増えるかもしれない。いずれにせよ、日本人が国際的には独特の倫理観を持っているという自己認識が必要で、それはグローバル化に伴いより顕著になっていくだろう。日産とカルロス・ゴーンをめぐる一連の騒動もその現れの一種である。

性格診断

性格診断というと疑似科学的なイメージがあるが、遺伝的な性格の理解は自分と他者を知る上で重要である。例えば、ビッグファイブと呼ばれるモデルは、人間の性格を開放性・勤勉性・外向性・協調性・神経症的傾向の5つに分解する。先に述べたように、リベラルは開放性で高いスコアを、保守は神経症的傾向で高いスコアを示す傾向がある。

自己認識の共通のフレームワークを持つことで、我々は自身の盲点に自覚的になり、他者の主張に耳を傾けることができるようになるかもしれない。


  1. 2000年から2011年にかけて、アメリカでは自身を中庸と評価する人が40%から36%に低下した。一方で、保守は38%から41%に、リベラルは19%から21%にそれぞれ増加した。 ↩︎

  2. 原題は"The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion"。この手のものでは珍しく良い邦題だ。ちなみに、筆者は原文を読んだため、本文で用いられている語彙と邦訳が一致しているとは限らない。 ↩︎

  3. これは、リベラルの道徳基盤は保守に比べて狭いことを意味する。また、このために、保守がリベラルを理解するより、リベラルが保守を理解するほうが難しいとハイトは主張する。これは、私の直感と一致しているが、リベラルがこれを受け入れるのは難しいかもしれない。 ↩︎

  4. 心理学者のジョーダン・ピーターソンは、全体主義の例としてヒトラーが広く認識されている一方で、スターリンや毛沢東は学校教育の中で十分に扱われていないと主張している。 ↩︎