大江健三郎という人


結婚、娘の誕生、海外生活を経て、この数年「実存の問題」について随分悩まされた。厭世的なところがありながらも、その卑しさで客観的な生活を満足させ、英語を操りながらプログラマとして申し分ない給料をもらっている。賃金労働者としては大成功だ。一方で、自分の意志と無関係に物質的な豊かさが増していくことが、自分の人生をコントロールしているという感覚を希薄にしていた。

「合理性の導く所に幸福はない」という確信から、次第に疑いようのない原始的な感情に向き合うようになった。昨年にJordan Peterson“12 Rules for Life: An Antidote to Chaos”という本を読んだあたりを分水嶺に、この「存在感の無さ」からようやく抜け出せそうな期待感が現れた。Jordan Petersonは、あくまで唯物論的な立場から、キリスト教的な倫理観を人生の意味を形作るための有効な手段として再評価している。

A shared cultural system stabilizes human interaction, but is also a system of value—a hierarchy of value, where some things are given priority and importance and others are not. In the absence of such a system of value, people simply cannot act. (拙訳: 共通の社会制度は人間同士の交流を安定させると同時に、価値の体系でもある。つまり、何かが何かより優先され重要であるとみなされる価値のヒエラルキーであり、そのような体系不在のもとでは、人間は単純に行動することができない。)

ヨーロッパでの生活も4年目となり、かえって自分の出自に対して自覚的になってきたことから、 キリスト教の代わりに日本の伝統的な倫理観を用いて「実存の問題」を克服する方法を模索するようになった。 この着想と自分の現実主義が融合されたものは、日本の中道右派と親和性が高かった。簡単にいえば、以下のような感覚を持ち始めていた。

人間存在そのものが合理的なものではないから、どこかで超越的なものに頼らざるをえず、日本人の場合それは国家とそれを支える神話である。これを失うべきではない。

僕の中で理想主義者というのは、思慮そのものが足りないか、ルサンチマンに駆り立てられた存在であった。また、昨年越してきたベルリンという街も自分の思想の変化に大きく寄与した。僕のベルリンの印象は「大思想家の上を戦争が通り過ぎ、さらにその上を厚顔無恥な快楽主義者が闊歩する一向に豊かになりそうにない土地」だ。伝統の破壊者に対する嫌悪感は少しずつ自分の保守的な傾向を明らかにしていった。

妻は第二子の出産を控え、娘を連れて日本に帰国している。持て余した時間を使って、この感覚をもう少し冷静に分析してみることにした。あれこれと日本の保守思想の源流について考えを巡らせる中、どうしても大江健三郎という人が気になってしかたがなかった。おそらく自己反省的で、また思考によって自らを形作るような人間が、どうして理想主義者になりえるのか。三島由紀夫との不思議な関係性を鑑みても、明らかに一枚岩の存在ではない。学生の頃、その作品を手にしたような記憶があるが、そこから何かを読み取れるような思想の成熟を僕は経験していなかった。しかし、ここにきてようやくそれが僕の人生に何らかの意味をもたらすのではないかという直感から、改めて代表作である『万延元年のフットボール』を読むことにした。相反する者の内面を覗くことは、それに取り込まれてしまう危険も孕んでいるのではないかという、ロマンチックな恐怖心もあった。

特に前提知識を持たずに読み始めたが、彼がその執筆を通じて「実存の問題」を乗り越えようとしていることは明らかだった。サルトル等の仏文学に傾向していたことからも、それを疑う余地はないだろう。この作品はまぎれもなく現実主義者(蜜三郎)と理想主義者(鷹四)の間の実存をめぐる戦いであり、最終的に後者が肯定される。

蜜三朗は、合理的で社会の中でその存在を認められているが、その冷静さは作品中執拗に「ネズミ」と形容される。

…と僕は局外中立者の意見をのべた。

「蜜は社会生活から、まったく降りてしまっているのに、なお、社会から受けいれられる人間なのよ」とすでにウイスキーの最初の一杯を飲んだ妻が解説した。

あんたは、ネズミそっくりだ。

一方、安保闘争、渡米を経て帰国した弟の鷹四は、ヒロイックな幻想を抱いた暴力的な存在である。彼は、一揆の指導者であった曽祖父の弟と自分を重ね合わせ暴動を画策する。彼を突き動かす自己処罰の感情は最終的に彼を猟銃自殺へと追いやってしまうが、作者の自死に対する憧れの感情は隠しきれない。思想の純粋さのために己を殺すという行為は知行合一の完全な存在になるための手段である。

鷹四は、最後にかれの裸の上半身を柘榴のようにする銃孔に向かってたった瞬間に、曽祖父の弟にならうべき熱望につらぬかれた自分のidentityを確認し、自己統一をとげた。

鷹四の中に一片の正しさを認めた蜜三朗は、作品の終わりに、思考の世界から抜け出すことを決意する。

窪地を去った後の僕の仕事の場は、(中略)ヘルメットをかぶりスワヒリ語を叫び、昼となく夜となく英文タイプを打って、自分の内部でなにが起こっているのかを検討する暇もない、汗と土埃に汚れたアフリカ生活である。

大江は「実存の問題」に対する答えとして、理想主義に基づく「行動」を掲げた。考えるだけで何の主張もない現実主義者は生きながらにして死んでいると。彼にとって「自衛のための軍隊」、「安全な核」などというのは嘘にすぎないのだろう。純粋なる平和というほとんど不可能な目標のために最後まで戦う。彼の政治的スタンスは彼の生き方の問題なのだ。

戦争や安保闘争を経験していない僕にとって、彼が感じるのであろう右派の歴史修正的な側面は現実味を帯びることがない。だが、彼の思索の中に間違いなく自分の片割れのようなものを認めたし、その帰結は恐ろしいほど理解できた。

政治的側面を抜きにしても、精神世界の問題を想像力でここまで魅力的な物語にしてしまうところは実に見事で、その文学的価値は疑いようがない。決して短い作品ではないが、読むペースは次第にあがり、後半は一気に読み終えてしまった。十数年前に意味をなさなかったものが、まさに彼がこの作品で谷崎潤一郎賞を受賞した年齢に差し掛かるタイミングで、自分の血肉まで届くような感覚をもたらすようになった。取り込まれてしまったとは思わない。だが、彼の思想は確実に内在化され、これからの僕の人生に影響を与え続けるだろう。

戦争と高度経済成長を経験しない僕は、ゆっくりと老衰していくような日本を見ながら、どうやって万延元年を克服するのだろうか。

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