人間は分かりあえるのか

どういうわけか、物々しいテーマについてばかり書きたくなる。

日本で生まれ20代後半までをそこで過ごした自分にとって、海外の生活というのはどれだけ慣れても「当たりまえ」にはならない。特に分割と統合の長い歴史を経たヨーロッパの人々の人間理解には良くも悪くも驚かされることが多い。近頃の自分自身に政治的な傾向も、積極的にというよりは、外界に対する違和感を受けて自分のスタンスに自覚的にならざるを得なかったというべきである。

EUに対しては様々な批判があるが、圏内にいる人たちは兼ね好意的な反応を示しているように見える。慎重派と思える人でさえも、人間の差異は環境に起因しているのみであり、努力することで単一の平等な社会が実現できるというような考えを根底に持っていることが多い。サミュエル・ハンチントンエマニュエル・トッドのどちらが正しいかはともかく、彼らが定義したような文化圏を超えて人類の統合が進んでいないことを考えると、これはいささか楽観的すぎる態度であるように思う。

こうしてリベラルな考えを持つ人たちは共通して、私から見ると、高い共感性を持っている。社会性が高く、他人の不幸に敏感である。得てして「良い」人間である。自分の中に想起される他人の不幸は実在するものであると信じて疑わない。こうして、不遇な生活を送っているはずの性的・人種的マイノリティに対してはアファーマティブ・アクションがとられ、誰かを傷つけているはずの言葉の使用は当然禁じられる。人間は根源的に同じ「容器」であり、中身は変えることができる。だから、その良心はしばしば他人を変えようとする暴力性として現れる。

唯物論的な立場から見るとこうした考え方には多くの疑問が残る。まず非常に素朴な実在論の問題がある。あくまで自分の認識力を用いてシュミレーションした他者のイメージをそこまで信頼することができるだろうか。また、我々は物質レベルで異なり、その差異が個々人の考え方に現れるということもあり得る。例えば、免疫力と政治的スタンスに相関があることが知られている(ヒトラーは極度の潔癖症であった)。さらに、ミラーニューロンの発見はエンパシーを物質レベルで説明可能にしたと言える。

私がこの共感性過多の社会に対する違和感をいつまでも拭い去ることができないのは、他人を変えることに無関心な東洋的な二元論の世界からやってきたからではないかと思う。人を理解すること、また自分が理解してもらえるということを期待していない。冷酷だが、平和主義者である。優しい人の残酷さと、冷たい人の穏やかさの対比は考えれば考えるほど悩ましい。

「人間は分かりあえないよ」と身も蓋もないことを言ってしまわない辛抱強さをこのベルリンという土地から学んでいる一方で、押し付けがましい人類愛に辟易とすることも多い毎日である。