哲学はバカのすることか
そうかもしれない。
抽象的思考力は賢さの指標ではあるけど、あえて具体のレベルにとどまって不用意にその意味とかを問わないのも賢さだよな。意思的かはともかく、生産性が高い人は後者が得意な気がする。
— Yusei Nishiyama 西山勇世 (@yuseinishiyama) October 13, 2020
抽象的思考というのは一般に高い知性の現れとされるが、大きすぎる問題について考えるのも賢明とは言い難い。より大きな利益のために短期的な達成を犠牲にする人間固有の能力が暴走している状態である。
人生は、短めの目的手段連鎖の集積だ。人生全体が目的手段の連鎖で成り立っているのではない。その集積が(=人生)が全体として価値のあるものだったかどうかは、その連鎖がすべて究極目標につながっていたかとは関係ない。 戸山田和彦『哲学入門』
見渡してみると、我々は実に様々な抽象レベルを日常的に行き来している。例えば、
- 顧客の笑顔
- 適切な人事評価
- 健全なバーンダウンチャート
- 正しく設計されたプログラム
- キーボードから指を伝う心地よいフィードバック
これらは、会社員の妥当な「目的」の例であり、それぞれ非常に異なった抽象レベルにある。ここで重要なのは、上位のレベルの目的が必ずしも高い生産性を意味しないということである。むしろ、上位の目的であるほど定義が難しいため、下位の目的を連続的に達成する人間の生産能力が優れていることは珍しくない。
知恵の輪、ルービック・キューブなどは古くから知的な人間のアイテムといった印象がある。これは上位の目的、つまり「なぜやるのか」を無視して目先の課題に取り組める能力の指標である。賢い人に役に立つかよく分からない趣味がある、というようなステレオタイプも存在する。
極度に単純化すると、この抽象レベルの差が狭義の文系、理系を分け隔てている。文系は哲学や政治といった抽象的な問題を、理系は厳格に定義された具体的な問題を扱っている。厄介なのは、人間の心や国際関係など多くの人文的な問題が科学の範疇となり、科学的な裏付けなしに高次の問題に取り組むことは現代ではもはやナンセンスである。
だから、大きな問題を避けて身近な事柄の具体的な改善を目指すプラグマティズムはある意味で優れている。だが、こうした生き方ができるのは時代が許す限りであるということを忘れてはいけないだろう。政治的な苦境や、身内に起こる不幸によって、突然「価値」の問題に対峙せざるを得ない時がやってきてもおかしくないのだから。
価値についての問題―それはやはりわれわれが為すこと、われわれが努力すること、いかにわれわれが行動すべきかということについての問題なのだ。だから問題は、人間によって、人間に関して提出されている。それは、われわれが生活を通じて進むべき道をさがすときに、それに従ってその方向を正すべき指針についての問題なのだ。 W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳