想像力と可能性

幸せの一つの定義として「達成可能な目標があり、それに向かっている進歩している感覚がある」というのは妥当だろう。

今年で32歳になるが、今後数十年に渡ってその感覚を得続けることができるかどうか自信がない。自分の「想像」の範囲内にあった人生のイベントの大半が既に済んでしまったからだ。

結婚して、子供が二人いる。収入はいくらでも上がいるが、サラリーマンであれば40とか50くらいで貰うのかと子供の時に思っていた額を稼いでいる。いつかやってみたかった海外での生活というのも実現した。仕事も大きな裁量があるし、誰かから指図されるようなことは全く無い。

真っ当にいけばエンジニアとしてのスキルを更に磨いて、収入を最適化し生活コストを抑えて余剰資金をインデックス投資にまわすというようなことをやっていくのかなと思うし、実際そういうことをしているわけだが、そこまで守りに入るほど年を食った気もしない。

腹立たしいのは、もっと幸せになる方法が全然検討もつかないくせに、人生がめちゃくちゃになるようなイベントを想像するのには1秒も必要としないことだ。プロスペクト理論は、「あらゆる時点で想像可能な不幸の総量は幸福の総量よりも多い」ということを意味しないだろうか。

確率に対する人の反応は非線形である。プロスペクト理論の提唱者の一人であるカーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞した。

確率に対する人の反応は非線形である。プロスペクト理論の提唱者の一人であるカーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞した。

当たり前だが、想像できないことは実現しないし、逆に、具体的に想像できることはなんでも実現可能だ。自分の悩みは全て想像力の枯渇から来ている気がする。最近は、少し無理をして知らない人の話を聞いたり、情報発信をしたりして、自分の想像力の限界を広げようと努めている。話が逸れるが、周囲の人間が自分のスタンダードになるわけで、どういう人を知っているかというのはかなり大事だなとこの歳になって痛感している。

価値観のマッチだけで自分をドライブできるようなビジネスがあれば少しリスクをとってもいいかなと思っている。人間のコミュニケーションの問題を解決するような新しいアイデアがあれば挑戦してみたい。極論ばかりが増幅されたり、同期的なコミュニケーションに非同期レベルの正確さを求めたり、異なる利害関係者間での完全な合意を前提としたり、といった不毛な対立を生むコミュニケーションを避けるような仕組みがあればいいなとよく思う。