音楽と実存

サルトルの『嘔吐』は彼の哲学を平易な小説に落とし込んだ実存主義の聖典である。その中で音楽は吐き気、つまり実存的不安を解消する契機として幾度か登場する。

私があの美しい声を愛しているとすれば、それは特にそのためだ。声量が豊かであるとか、悲哀感があるとかいうためではない。あの声が、ずっと前からたくさんの音によって用意された結果だからであり、この結果を導くためにそれらの音が滅びたからである。

起こったこと、それは<吐き気>が消えたということだ。(中略)音楽は四壁に向かってわれわれの悲惨な時間を押し潰し、金属的な透明によってわれわれのいる部屋を満たした。私は音楽の<中>にいる。 J-P・サルトル『嘔吐』白井浩司訳

音楽はその存在以上の表象を聴き手に生む。例えば、演奏者としてピアノに向かい譜面にCm7という和音を認めたとする。すると私の頭には以下のような幾何学的パターンが浮かぶ。

  x   x
xx xxx x

より正確にはトライアドを強調した次のようなものであることが多い。

  x   x
xo oxo ox

さらに、この中に3つのペンタトニックスケールが存在するとか、EbとBb以外からは最低3つまで4度の堆積を作ることができるというようなことがほぼ自動的に認識される。もちろん、自然なメロディーが浮かんだり、別の選択肢を検討したりすることで、自発的にこれに抗うこともある。

ところで、こうした一連のプロセスは聴き手が受ける印象とは関係ない、それでいて評価にはある程度の一貫性がある。音という物理現象と演奏家としての知識といった「部分」には存在しなかった何かが全体には含まれている。この音楽における現象と表象の関係は、インクの染みと絵画の関係よりもはるかに危うく、それだけに強力である。

この現象をより科学的なものに還元することは可能だろうが、この無意味と意味の裂け目はそう単純ではないだろうという直感があって、それが安易なニヒリズムから私を何度も救ってくれたように思う。