共同体としての会社、そしてコロナ禍

立花隆の本にこんな一節がある。

地縁や血縁を放棄してしまった日本人は、イエとしての会社がなくなってしまうと、もはや所属すべき共同体はどこにもなくなってしまう。(中略)会社はあらゆる”縁”を捨ててしまった日本の男たちの最後の寄る辺なのだ。 立花隆『(日本人)』

両親と疎遠でライフステージ毎に人間関係をリセットし、住む場所も転々としてきた私は立派な「日本の男」の一人だ(そして、そういう人が大概そうであるように「地元」は時に脅威であり、時に軽蔑の対象である)。

コロナとリモートワークは、この最後の共同体との関わり方を変えてしまった。コミュニティーとしての側面が失われ、仕事だけがそこにある。だが、孤独感はそれほど深刻でなく、むしろ身軽になったような気さえする。

他者というのは欲望の源泉である。ふれあいを持ちたい、認められたいというような直接的な欲求だけではない。他人の欲求は自分の欲求へと伝染する。ルネ・ジラールはこれをミメーシス的欲望と呼んだ。他者から距離を置くことで、知らずのうちに模倣された欲求から解放されているのではないだろうか。

ここドイツの一日あたりのコロナ新規感染者は1万を超え、事態は悪化の一途をたどっている。この予期せぬ内省の時期はもうしばらく続きそうだ。