否定すること
中途半端な否定
「私はネガティブなんです」と嬉々として喧伝する者が、如何に中途半端な否定を実践しているかを指摘することはいとも簡単である。それは、彼らが「自分自身の否定的傾向について、肯定している」という中途半端さを持っているからだ。これは、負数に正数を掛け続けるようなものであり、その符号は負で在り続ける。私はこれを誤解されたネガティビズムと考える。
現実は残酷である
はじめて自らに対して否定の目を向けた時、確かに世界は地獄の様相を示す。己を客観的に観察した時、誤魔化しようのない欠陥が幾つも見つかるからだ。そして、唯物論の世界を信じるものは、その欠陥をあるがまま見つめ耐えるしかない。唯物論者は嘘偽りによって自らを慰めたり、誰かの慰めの言葉に耳を貸すことはできない。たとえ幸せであったとしても、盲目的な考えに支配されているものは不幸であり、我々はそこから解放されなければならない。しかし、そのようにして解放された先の、物事があるがままである地は恐ろしく残酷だ(私の尊敬する優れた哲学者たちは、その残酷な世界で哲学をどう働かせれば絶望することなく生きていけるかを模索している人たちである)。こうした容赦無い否定に自らを晒し続けることで、自信は喪失し、他者からの信頼も失う。その中で、気づくことがある。
「この否定は果たして私の役に立っているのだろうか。」
真に否定的であるとうこと
否定に対し否定の目を向けた時、何が起こるだろうか。肯定的な人間になったといえるだろうか。そうではない。自分の精神活動を否定する行為によって、己の限界を打破しようとしているわけで、あくまで否定的な人間のままだ。だが、これは大きな進歩である。自らが「否定そのもの」ではなく「否定するもの」であることに気づく瞬間であるからだ。
-- 無限リストを1と-1が交互に現れるように畳み込む。
foldl (\x y -> x * (-y)) 1 [1..]
1や-1が本質なのではなく、-1をかけるような関数であることが本質なのだ。そして、「否定するもの」こそが真のネガティビズムの実践者なのだ。
否定の豊かさ
この落書きもやがて否定される運命にあるのかもしれない。しかし、そうやって否定された時、そこにはもっと豊かな世界が広がっているに違いない。公理を絶対的真理とは捉えない現代の公理観によって、いかなる考えも正しく在り続けることはできないかもしれないが、否定は常にそこに存在する。先のように、否定を否定しても、やはりそこには否定があるからだ。否定は私を蝕むものではない。否定という確かなものがあるからこそ、全体としては前向きに生きることが出来ると信じている。