きっと、うまくいく

映画『きっと、うまくいく(3idiots)』を見た。

序盤は、ボリウッド特有の唐突なミュージカルシーンと、とてつもなく大味の筋書きに慣れなかった。しかし、終わってみると、伏線もきれいに回収され、結末もすがすがしく、前評判通りの快作だったといえよう。

ランチョーという主人公を通して明らかにされる、この作品のメッセージは「誠実さ」に尽きる。彼は納得のいかないことをそのまま放置することが出来ず、しがらみに縛られて不誠実な行動をとる人間にひたすら突っかかる。この彼のお節介が、様々の愉快な事件を巻き起こし、また周囲の人々を変えていく。

勇気をもらえた一方で、どうしても違和感が拭い去れなかった。

主人公ランチョーはの人間像は理想的だ。彼は、このようにありたいと思うと同時に、そのようにあろうとできる。一方で、ランチョーの周りの人々はとても現実的だ。彼らはインドという国に住みながらも、抱えている問題は我々日本人とほとんど変わらない。彼らの抱える問題は、

親の希望と自分の希望が乖離していること
宗教を盲信してしまうこと
貧乏な家族の生活を背負っていること
他人の期待に必要以上に答えようとしてしまうこと

など、万国共通の問題である。ランチョーはこうした問題を抱える人間に、自分に正直に生きるように勧める。ではなぜランチョ―はしがらみから開放され、自由に振る舞うことができるのか。それは、「本当に」彼にしがらみがないからに他ならない。

ランチョーには家族がいない。また、彼は家庭を持とうとしない。エンディングでついにランチョ―はヒロインと結ばれるが、それまで彼は不自然なほど彼女との生活を拒んできた。ヒロインとの結婚はハッピーエンドのためには必要であったが、ランチョ―の非現実的な人物像には相応しくない。ヒロインは婚約者を捨て、10年ぶりに出会ったらランチョーと結婚するという異常な行動をとるが、これはランチョ―と結婚のミスマッチとハッピーエンドの間のギャップを解消するための強引な策ともとれる。

内田樹は「哀しみの平成無責任男」というエッセイで『ニッポン無責任時代』の植木等と『踊る大捜査線』の青島俊作を例に出し、トリックスター特有の非現実性を見事に説明した。

TVシリーズで織田裕二君が演じた青島俊作君は、湾岸署の小市民的な同僚たち(今回も相変わらず快調)と、本庁のエリートたちとの出口のないコミュニケーション不全に爽やかな風穴をあける「ヘラヘラ刑事」であった。この青島刑事がかつて「無責任シリーズ」で植木等が演じた、何ものにも束縛されない「お気楽サラリーマン」の直系の後継者なのだということに、今回映画を見てはじめて気がついた。『ニッポン無責任時代』の植木等には、帰る故郷も、骨を埋める社会も、養うべき家族も、ご機嫌を伺う恋人も、兄弟仁義で結ばれた友人も、なんにもない。だからいかなる権力も誘惑も彼をコントロールすることができない。彼が求めるものはただ一つ。自由である。無責任男は高らかに笑い、振り向きもせずに歩きさる。(中略)この「私生活の完全な消去」を代償にして青島刑事はかろうじてその行動の自由を確保していたのである。年金やローンや家族のしがらみに呪縛された同僚たちと比べると、彼には失うものがなかった(少なくとも、彼が「失うかもしれないもの」は私たちには知らされていなかった)。(内田樹著『態度が悪くてすみません』より)

内田樹の言う「私生活の完全な消去」はそのままランチョーにあてはまる。我々は、植木等や、青島俊作や、ランチョーではない。つまり我々は私生活を持ったしがらみだらけの人間である。この映画は、自分のあり方を自分で決定することのできる理想の人間像を上手く描いている一方で、彼の私生活を抹消してしまったがために「では我々はどうすればいいのか」という哲学的な問の解決には完全に失敗している。

このようにランチョーの人物像は非現実的であるが、私はこの非現実的な人物像を例外的に現実にした人物を知っている。それは物理学者リチャード・P ・ファインマンだ。ファインマンとランチョーの間には以下の様な類似性が認められる。

画一的な教育に対する不信感
権威主義を執拗に攻撃する態度
楽観主義
現場主義

類似性は性質だけにとどまらない。誰もが知るように、彼もランチョーと同じく科学の世界で大成した。ランチョーよりも、ファインマンのほうが実在する人物であるだけに、その生き方を参考にしやすいだろうか。否、彼とてランチョーと同じ非現実性を有している。

いくら人が僕はこういう成果をあげるべきだと思いこんでいたって、その期待を裏切るまいと努力する責任などこっちにはいっさいないのだ。そう期待するのは向こうの勝手であって、僕のせいではない(R.P.ファインマン著『ご冗談でしょう、ファインマンさん』より)

ファインマンの自由奔放な性格・行為を支えているのはこうした無責任であった(実際彼は同書の中で、自分の思想に「社会的無責任」とうものを挙げている)。何にも縛られていない人間は確かに魅力的だ。思うままに行動し、あっという間に凡人を抜き去り高みに登る。そこを目指すことは何も悪いことではないし。そういう人間が偉業を成し遂げ、人々に勇気を与えることも事実だ。だが、しがらみに縛られた人間を不自由な人間として描き、それを解放しようとする行為を賞賛するのはどうも間違っているように思う。

この映画を見て勇気づけられた人間も、映画が終わった途端に再びしがらみだらけの世界に戻る。もし、そこで一念発起して、「今日から何ものも俺を束縛できない」と言えるのであれば、おそらく元から「無責任」な人間であったのだ。「責任感」、悪く言えば「しがらみ」を抱えた人間が自分を呪う必要はない。自由である代償は無責任であり、おそらく無責任は誰かを不幸にする。皆が無責任であれば、社会は機能しない。責任を負いながら生きている人間も必要であり、そういう人間を不幸とする人生観こそが誤りだ。責任感のある人間はそれを誇りに思わなければいけない。