クインシー・ジョーンズ来日

クインシー・ジョーンズ生誕80年を記念して、32年ぶりにQが日本のステージに立った。そんな訳で、私も去る7月31日、東京国際フォーラムに赴いた。

どういう訳か、日本人アーティストの演奏が全体の半分ぐらいを占めている。トリビュートパートと呼ばれており、亀田誠治がプロデュースしているらしい。
その出演者は

綾香・小曽根真・小野リサ・K・ゴスペラーズ・BoA・三浦大知・土岐麻子

という混迷っぷりだから、見る前から少し不安であった。

ちなみに、メインであるクインシー・ジョーンズのパートは、いわゆる「クインシーの秘蔵っ子」が次々と出演するという構成。しかも超若手の、見聴きしたことのない出演者ばかりで、こちらも同じく不安であった。

ライブレポートを書くのであれば、司会のクリスペプラーの登場から時系列順に内容を追っていくべきなのだろうが、そういうつもりもないので結論から言おう。

ライブ自体は「かなり迷走していた」と言わざるを得ない。

日本人のトリビュートパートはクインシーがアレンジした曲や、プロデュースした曲を中心に披露していた。これらは、正直あまり聴けたものではなかった。もちろん、「日本人だから、とか、そのアーティストに興味がないとか、そういう理由でバイアスがかかって純粋な評価を下せないのではないか」と、問われたら、否定する自信はない。だが、クインシーを見に来たファンにとっては、こういうネガティブな感想があたり前ではないだろうか。なにせ、クインシーのカバーだ。大ヒット曲だけに、様々な人の無数の思い出と結びついている。そういう曲をカバーすることがどれだけ重く、また難しいことか、そんなことぐらいはプロであれば当然予想していて然るべきである。

圧倒的にアウェイなのだ。普通に演奏した所で、「お前を見に来たわけじゃない。クインシーの曲を汚すな。」そう思われるのが目に見えている。確かにミュージシャン同士であれば、そういうアウェイに立たされる者に同情し耳を傾けるかもしれない。だが、全ての観客に同情を求めるのはプロ失格だ。

何が言いたいかと言うと、「余程素晴らしい演奏」でなければ観客の心を掴めないステージで、凡庸なパフォーマンスを披露したアーティストが多かったということだ。

そんな中でも、例外的に、「聴いてしまった」アーティストが2人いる。

1人はK だ。それまで、名前を聞いたこともなかった。そんな彼が「One Hundred Ways」を演奏すると聞いて、心底ヒヤヒヤした。「One Hundred Ways」でのジェームス・イングラムの歌は奇跡的に素晴らしい。歌いあげてしまいそうなところを、そうはせずに1フレーズずつ丁寧に歌う。聴き慣れていても、一緒に歌おうとするとディテールが細かすぎて一緒に歌えない。名曲にはよくあることだ。Kが歌うと聞いて少しがっかりした。ジェームス・イングラムの歌が聴きたかったのに、と思ってしまった。

しかし、彼がイントロのピアノを弾きはじめた途端、空気がガラリとかわった。ジャズやその他ブラック・ミュージックに理解がある、そういう演奏だった。歌にしても、ジェームス・イングラムのそれとは違う、また別の上手さがあった。モノマネやカラオケではない、対象の曲を自分のものにしていなければできないパフォーマンスだった。

そして、もう1人の例外は、もちろん小曽根真だ。

Kにしてもそうだが、ある音楽を真に敬愛しているということは、その音楽が生まれた土壌や、精神を理解しているといことだ。だから、その理解した根っこさえ示すことができれば、同じ楽曲を演奏しなくても十分に敬愛を表現することができる。

だから、小曽根真はクインシーへの敬愛を示すために「自分のジャズ」を演奏した。それも、No Name Horsesという日本屈指のビッグバンドには短すぎると言わざるを得ない、たった2曲のセットリストの中で本気の演奏を見せつけた。誰とは言わないが、日本人アーティストの即席ジャズバンドとは比べ物にならない本物のジャズであった。セッションミュージシャンのジャズは

「ライドをこういう風にたたくとジャズになる」

とか

「ベースを4分で弾くとジャズになる」

とかといった、浅はかさがどうしても透けてしまう。当たり前だが、小曽根のようなジャズの前線にいるミュージシャンの演奏はそうではない。

「これがジャズだ」

と言わんばかりの演奏をする。そして、そういう風な音楽でなければ、ジャズにならない。ジャズをジャズたらしめているのは、音楽の種類、楽曲の構造、楽器の編成ではなく、その精神なのである。だから、セッションミュージシャンのように、ただ単にジャズの構造で演奏してもジャズに聴こえないのだ(カフェや歯医者でかかっている、ポップスのボサノバアレンジがボサノバに聴こえないのも同じ理由だろう)。

私の考えるジャズ、それは「自己否定」だ。

ジャズは間違いなく、その遺伝子に自己否定を組み込まれている。ジャズは演奏したその場からジャズではなくなる。過去の演奏は「ジャズであった音楽」であり、決して「ジャズである音楽ではない」。ジャズは、「ジャズを解体することがジャズ」というパラドックスを内包している。いまや、ジャズの代名詞である、チャーリー・パーカーやマイルス・デイビスやビル・エバンスだって、当時は一番新しく、一番尖っていたからジャズを代表するに至ったのだ。月並みの表現ではあるが、やはり、彼らが私達と同世代にいれば、また別の音楽を演奏したであろう。

そういう意味で小曽根真の演奏は「ジャズ」そのものであった。ジャズは誰かの過去を再現するものではない。彼の音楽は、他の誰かが演奏したものとははっきりと区別できるオリジナリティがあった。

さて、続くクインシーのパートであるが、随分と感想が長くなってしまったので、メインのステージではあるが、短くまとめよう。言いたいことはだいたい言ってしまった。

クインシーのパートは、まだまだこれから、という感じのアーティストが多かった。ジェームス・イングラムやパティ・オースティン(そして、日本の某国民的歌手・・・)を見ることができたが、全体として、ファンの懐古的精神を十分に満たすような内容ではなかっただろう。

しかし、真のジャズはいつでも懐古的な感情を裏切るものである。クインシーも過去に囚われない人間であるから、これだけの長い間音楽の世界に君臨し、とても1人の人間がカバーできるとは思えない領域で作品を残すことができたのである。だから、クインシーの名曲ばかりを聴きたかったと不満に思うと同時に、クインシーはまだ前に進もうとしているのかと嬉しく思いもした。きっとクインシーは前向きで明るい人間だろうけれど、少なくとも音楽に関しては厳しい自己否定をしているに違いない。

どんなにプロデューサーや編曲家としての功績が大きくても、やはり私にとってクインシー・ジョーンズは紛れもなく「ジャズマン」だった。