自己矛盾との付き合い方
先日、岡本太郎美術館へ行った。
正直なところ絵には疎い。全くのデタラメを抽象画といわれて、納得してしまうことは充分ありえる。そして、仮にそれが美術館に置いてあったとして、その絵の前で手を組んで頷いたりしてしまったら、これほど滑稽なことはない。だから、岡本太郎が描くような抽象画にもある程度距離をおいて対峙したところ、次々と矛盾した感想が頭をもたげてきた。
やっぱりこんなのはデタラメだ。
⇔デタラメに見えるが、一貫したモチーフがあるように思う。解説によると、考えぬかれた構図があるらしい。
親も金持ちで、パリに留学している。結局、金か。
⇔岡本太郎がフランス語でしゃべっている映像が展示されていた。かなり努力したのでは。
もし、これが適当だとしたら、全く無価値だ。
⇔これだけバカでかくて派手な色の作品だとどうしても気になってしまう。気になるということはそれだけで価値があるのでは。
アバンギャルドな人だ。
⇔TVに出演し、大衆に迎合した人だ。
画の練習などしなくてもこんな画は描けそうだ。
⇔かなり立派な肖像画も描いている。
いったいどうしてこれほど評価を定めることが出来ないのかと困惑していると、それに答えるかのように、岡本太郎の芸術理論を紹介している動画の中で、こんな言葉にぶつかった。
「矛盾を矛盾のまま書きだすのだ。」
ああ、そうか。と、これで全てが納得いった。なんてことはない、私が最も大事だと思っている考えを岡本太郎は体現したわけだ。
私は同じ考えを「自己矛盾を解消してはならない」というポリシーとして所持していた。
自分を割り切るというのは魅力的な考えだ。例えば、こんなふうに。
「私は社交的な人間です。人と接することが何よりも好きです。」
「私はいついかなるときもリーダーシップを発揮する人間です。」
「私は凝り性です。どんなことも原因が分かるまで追求しなければ気がすみません。」
自分がどういう人間かについて考えることは重要である。そして、他人に自己紹介するときに「実を言うと自分というものがよく分からないんです…」などと言えば困惑されてしまうから、上記のように言うほうが遥かに効果的なことが多い。どこか、就職活動の定形フレーズに似ているのは偶然ではないだろう。
だが、魅力的であると同時に、非常に危険な考えでもある。自分が「本当に」そういう人であり、そういう人になったのも必然であると考えてしまう可能性があるからだ。「自分の戦略」と「自分の実体」を混同してはならない。
社交的だと自称する人が、対人関係でいつも愚痴を言っている。
リーダーシップがあると自称する人が、突然責任を放棄する。
凝り性を自負する人がある分野に関しては全く無頓着である。
こんなことは日常茶飯事だ。それに、こういうことを攻めてはいけない。一貫性というのは常に期待されることではあるが、また同時に常に不可能である。親が死んでも特に何も感じなかったムルソー(注1)を人間味がないとみなすのは、一貫性の悲劇としか言いようがない。
誰しも自己矛盾を抱え込んでいる。バグまみれの人間に参照透過性など期待してはいけない。そして、そのバグが人間味そのものではないのか。確かに自己矛盾は辛い。例えば、
「昔は人の言うことを全く聞かなかったが、最近は人の意見を考慮するようになった。」
という人間を仮定する。そこから、
「私は人の意見を取り入れる柔軟な人間です。」
という結論を導き出し、これからもそのように生きてくと決めれば、それはとても脳にやさしい。だが、これはひとつの可能性にすぎず、別の可能性もある。それは、
「柔軟なことはいいことなのか。最近、丸くなったといわれるが、それは裏を返せば独創性が無いということではないのか。」
というような問いを自分に投げかける可能性だ。そうすると、
「私は柔軟になったが、それだけではいけないのでやはり安易に人の意見を聞くのはやめよう。」
という結論が得られるが、今度は
「やはり、自分の意見ばかりを押し通してばかりいれば信頼を得ることは出来ない。もう少し柔軟にならないといけないのではないか。」
という問いが生じて、堂々巡りになる。こうした宙ぶらりんの状態は、自分の割り切れなさに対する問いが無限に繰り返される状態であり、脳にやさしくない。やさしくはないが、この「どちらでもなさ」こそがまさに自分であり、それと向きあわねばならないのである。
岡本太郎の魅力は、自己矛盾と向き合った結果生まれたミスティフィケーションにある。「こういう人だな」と思ったとたん「そうでもない」とも思わされ、いつもすんでのところでひらりと身をかわされる。結局、なにも断定できないまま、その矛盾だけを見せつけられる。この態度は、アルベール・カミュの思想と一致している。
不条理に直面した状態を、意味を求めるときに生じた矛盾との対立であるとし、理性をもつ種である人間が直面する問題とした。不条理を悟ったり気づくことは個人に3つの選択をもたらす。自殺、宗教などへの盲信、不条理の認識である。彼は不条理を受け入れることが生き続ける唯一の方法としている。(Wikipedia「不条理」より)
(カミュの思想は「不条理」ということばで紹介されることが多いが、これは大変な誤解を生むから、こうしたキーワードと人物との結びつけはぜひとも辞めるべきだ。「不条理」ということばのもつ、虚無的な響きと彼の思想は全く異なっている。彼の思想は「不条理から目を背けないという『反抗』」を基礎とした、生きるための強く前向きな思想なのである。)
カミュは矛盾から目をそらし、宗教などを盲信することを「哲学的自殺」といったそうだが、「自分を割り切る行為」も当然自殺にあたるだろう。
私と同じ、20代男性の死因1位は自殺だそうだが(注2)、それと同じくらい「哲学的自殺」も多い。残念ながら、実際に私の身のまわりでも「自殺」と「哲学的自殺」はそう珍しいことではない。
確かに、それほど生きやすい時代・世代ではないが、なんとか自ら命を断つことなく強く生きて行きたいものだ。
注1…アルベール・カミュ『異邦人』の主人公
注2…自殺者統計