センスについて
私はよほど気心の知れた人とでないと、芸術の話をしたくない。ましてや、親しくもない人からそういう話を聞かされるのは耐え難い。
芸術の価値というのは受容者にとって全く異なってくる。ある人にとって価値のあるものが他の人にとっても価値があるとは限らない。だから、自分が良いと思っているものを他人も良いと思うだろう、と考えることは大変浅はかである。すぐに宗教や政治の話をする人が愚かであるのと同じ理由で、すぐに芸術の話をする人間は愚かなわけである。
私のことを芸術嫌いと考える人もいるかも知れないが、こんな私も大学では美学を専攻し、ほとんど毎日ピアノを演奏するような生活を送った。だが、こうした「批判」と「実践」の毎日は、結果として自己矛盾を産むばかりであった。
「どうして、作者不在の中で作品の価値について述べることができるのだ」
「ある作品が、ある作品より重要だと言うことができるのだろうか」
「一度も演者、作り手になったことない大学教授が、彼らが最も価値を認めていない作品に対してさえ語る権利があるのだろうか」
こんなことを考えるうちに、芸術の価値に関して自ら語ることはほとんど辞めてしまった。できないと考えたのだ。根拠のあるものが全てだと考えて、職業にはプログラマを選んだ。芸術についてとやかく口をはさみたがる人から見ると、私は芸術への関心が薄い人に見えるかもしれない。
確かに、自分にとって価値のあるものが、他人にとっても価値あるものである「可能性は高い」。その可能性を考慮した上で行われる、芸術について語る活動というのは意味があるだろう。しかし「物事そのものを宣伝する行為」というのは中々に難しい。どうしても「その物事を知っている自分を宣伝する行為」になってしまいがちだ。だから、何かを宣伝するときは常に後者になっていないかどうかを自問自答する必要がある。もちろん後者が全くない状態というのは難しいし、後者の要素が多少あっても前者の重要性が高ければ、有益な行為であるといえよう。
私が今回問題にしたいと思っているのは、「良いものを知っている人としての<自分自身>を堂々と喧伝する行為」である。これには反吐が出る。自らを「センスがいい」と称し、「センスがいいものを教えてやる」という上から目線で物事を語る。自己愛と、自分が知っているものへの愛が混同され、結局は単なる自己顕示欲の発露となる。自分に審美眼があると考えることは、なんと傲慢なことだろうか。それは、自分の審美眼を過大評価するだけでなく、それ以外の人の審美眼を貶める大変に失礼な行為である。先程述べたとおり、審美というのは個人のバックグラウンドと密接に結びついており、他人が口出しできるようなものではない。自分の審美のプロセスを他人の審美のプロセスより上に置くのは本来タブーであるはずだ。
だから、私は「監督」とか「ディレクター」といった肩書きの人はあまり信用していない。彼らは、まとまったものを作るために必要な「審美の調停者」であるべきだ。絶対的な基準を持たない審美は、そこで争いが起こると延々に収束しないし、するべきでもない。だから「暫定的な」基準を設けて調停する必要があり、その基準を決定するのが彼らなのだ。また、客観性を求めすぎると誰にでも受容できる凡庸なものが出来上がる可能性が高いので、個人の主観をとりいれることで良い意味での「偏り」と「尖り」のあるものを作るのも彼らの仕事だ。
私が彼らを信用できないのは、彼らが「価値ある主観」でなく「優れた客観」を持っていると勘違いしていることが多いからだ。「私には才能があるので現場の人間はそれを具現化するための道具にすぎない」と考えている人が多すぎる。「私は現場出身の人間で、現場のことをよく理解している」と思っている人間でさえ、そうだ。「現場にいないのに、現場を知っていると考えていること」がそもそも思い上がりだ。彼らは、「自分の価値観を具現化するために、周囲に協力してもらう」立場にあるべきだ。だから、「価値ある主観」だけでなく「協力してもらえる人となり」も大事なのである。間違っても「自分の客観が他人の客観より優れている」と考えてはいけない。こんな人間にはだれも協力しない。
近頃は本当に「センス」という言葉が氾濫している。
「センス」の良い服
「センス」のいい音楽
「センス」のいい身のこなし…
「センス」を磨く活動は、日本国民のメジャーな余暇の過ごし方になっている。どれだけの人が休日にお洒落なカフェや、美術館・博物館・コンサートの類に赴くだろうか。
そして「センス」を売りにして活動している人も増えた。もちろん、これはある程度仕方のないことだと思う。価値の寿命がどんどん短くなっていく現代において「一つのことだけで食べていける」そういう幸せな人は相当に減った。何をやってもすぐ消えていくので、あれこれ色んなことをやって食べていかねばならない。だから色んなことに首を突っ込んで生きていくしか無いのだ。
漫才だけでは食べていけないから、コントもする。CDを売るだけでは生きていけないから、インスタレーションとコラボする。絵を描くだけでは子供を学校にやれないので、本も書く。こういう風にオールラウンダーになっていく必要がある。そして、新しい分野に手を出す時に足がかりになるのが「センス」だ。
だが、商売する側からみると、「センス」などどうでもいい。企業が既に大量のユーザーがついているサービスを買収するのと同じように、既にファンがいる有名人というのはカネになるのだ。
悲しいかな、「センス」がいいと勘違いさせられた無数の有名人と、そうした人たちの「センス」を勘違いしてしまった無数の消費者がいるのが現実ではないかと思う。
もちろんある分野で名を挙げた人というのは、そこで培った方法論や哲学を他に活かすことができる。これは間違いないことだ。だけれど、こういう人を見て「センス」という何かを持った「全能」の人間がいる、と勘違いしてしまった人は多いのではなかろうか。
「センス」とは便利な言葉だ。反証可能性が全くない。一旦「自分はセンスがいい」と思ったが最後、自分を攻撃してくる人は全て「センスが無い人間」だ。幼稚な全能感に支配された誰からの意見にも耳をかさない、永遠の害悪がそこに生まれる。
本来「センス」とは、もしそういう言葉があったとすればだが、決して無形のものではないはずだ。それは、価値あるものを生むための「プロセス」なり「考え方」であったりするべきで、 再生産可能であり、だからこそ他の分野にもある程度適応できるのである。
自分の能力を問われて、「センス」とか「経験」をすぐに持ち出す人間は大したことのない人間だ。もし彼が何かを成し遂げていたとしたらそれは運だし、何も成し遂げていなければそれは然るべき状態だ。反証不可能な言葉に逃げるという事、それは「何も語るべきことがない人間」であるということの証明にほかならない。仮に運良く成功を収めていたとしよう、それでも後世に伝える言葉を持たなければ、それだけでその価値は半減する。もし、信念を持っている人間であれば、それを語れるはずだし、それを伝えていくべきなのだ。
もし、「自分はセンスがある」というようなことを考えている人がいれば、危険だと思ったほうがいい。きっと他人に失礼な言動・行動をして迷惑をかけているに違いない。そういう人の言う「センス」は誤った選民思想に他ならない。