バカ・アホ賛美はもう結構。

何かに対して、バカだとかアホだとか言うと、「お前はどうなんだ」という議論に持ち込まれることがある。だからはじめに言っておくが、

私もバカ・アホの部類である。

だが、「バカ・アホでもいい」と思うほどはバカ・アホではないし、ましてや、「バカ・アホが世界を制する」みたいな仰天思想の持ち主のようなバカ・アホでもない。

筒井康隆の『アホの壁』の冒頭にこんな文がある。

むろんアホの壁を乗り越えて彼方へ行かぬ限りは成り立たない仕事もある。言うまでもなく芸術という仕事である。芸術的狂気というものは一旦良識から離れてアホの側に身を置かねばならない。それが単なるアホと異なるのは、壁の存在、壁の所在、壁の位置、壁の高さ、壁を乗り越える方法などを熟知していることだ。そのためには冷静な正気を保ちながら壁を認識しなければならない。これができていない芸術は、常識に囚われたつまらないものにならざるを得ないだろう。
<筒井康隆(2010)『アホの壁』新潮社 p7>

あれほど無茶苦茶なスラップスティックを書ける作家の芸術感がこのようなものであるということは、とても印象的だ(『アホの壁』は、この常識さゆえに、筒井康隆特有の痛快さにはかけるので物足りないのだが)。

私は、個性というのはとても大事だと思っている。過去の財産にアクセスしやすい時代に過去の再生産を行なっても大した価値にはならないからだ。それに、今までに無かったものの見方・考え方や歴史観を生むような個性が、現代日本を覆う民族的な不安を乗り越えるためには必要不可欠だとも思う。

だが、絶対に「個性」と「変」を混同してはいけない。「個性」は意識的で、説明可能で、再生産可能であるがゆえに価値がある。「変」はそうではない。無意識的で、説明できないものであるから、面白いということはあっても共感を呼んだりすることはない。筒井康隆の言うところの「単なるアホ」にすぎない。複雑で高度な理論から発するものと、無意味でナンセンスなものは様相が似てくる。そういうわけで、アウトプットが同じならば、インプットを探らないとその違いが判断できない。だから、こそ説明できるということはとても重要だ。噛み砕いて言えば、「笑わせる」のはいいけども「笑われる」のは良くないということだ。

以前にも取り上げたが、Jobsの

Stay hungry. Stay foolish.

は、本当に冷静になって受け止めるべき言葉だ。そもそもJobs自身が引用した文であるということ。語呂の良い扇動的な文章であること。我々日本人には完全なニュアンスは理解できないこと。Jobsの人間性は賛否両論であること。これらのことを考えた上で受け止めなければならない。

琥珀色の戯言
この記事にあるぐらいの、一歩引いた考えが必要だろう。

こういう閉塞感のある時代に、「バカ・アホでも大丈夫だよ」と言われると救われた気持ちになるが、そういうところだけを取り入れたらどれだけ酷いことになるかは明らかである。先にも述べたように、これからは共感されるような思想が必要になってくる。そういう時に、「バカでいろ」といわれて「バカでいます」というような人間は役に立たない。日本でJobsの人気が高く、また、マスメディアにも取り上げやすい人物なだけに悪影響が無いか大変心配である。

「バカ」「アホ」とタイプしすぎたせいで、随分と下品な見た目になってしまったが、最後にもう一度だけ

Don’t stay AHO!