自己検閲の重要さ
文章表現に関する、興味深い記事を発見した。
「自分の書く文章は価値がない」を抜け出すライティング・マラソンという方法←自己検閲を振り切って書きなぐるために
書くことは、ほとんど必ず落胆を伴う(仕様だと思っていいくらいだ)。
文章を書く上でかならず障壁となるであろう「自己検閲の壁」をいかにして乗り越えるか、という内容である。まさに今ブログを書いている私にとって、こうした「書くことによって、書くようになる論」というのは、当然実感がある。
そもそも、あらゆる作業で、行動が動機を先んじることは珍しくない。こうした「作業興奮」をものにできるかどうかで、何かを成し遂げれるかどうかが決まる、といっても過言ではないだろう。
ところで、この記事で何よりも興味深いのが〈「作文のつまずき」の現れ方〉という図だ。
この図から導き出される結論の中で、最も妥当であるものは、ここで紹介している記事のような、
自分の文章が無価値に感じる、というつまずきを克服することで、平明達意の文章を書こう。
というものであろう。だが、同時に私は、この図から別の重大な点を読み取った。それは「自分の文章は無価値に感じる、というつまずきは成熟過程のかなり後半にある。」ということだ。
前回の記事とやや内容が重複するが、どうも最近は「表現することは正義」みたいな風潮がある。少なくとも自分は子供の頃から「日本人はシャイだからなんたら」だとか、「そんなんじゃグローバル社会でうんたら」だとか、さらにひどいのだと、「質問がなくても手を上げろ」とかいう無茶苦茶なことまで言われてきた。これは一種の呪いのようなものだ。会議の場や就職活動の場などで、本人でさえ不要だと気づいているあろうはずの全く意味を成さない発言が散見されることから、その効果は明らかである。
「自分の発言は無価値じゃないか」という自己検閲が機能する前の段階で、「気後れ=悪」みたいなことを教えるべきだろうか。むしろ、
- 自己検閲が働いていることは正しい
- その段階に達したからこそ、あと少しで平明達意の表現ができる
- だから表現しましょう
という風に段階を踏むべきだ。自己検閲が働いているということは、喜ぶべきことである。自己検閲が働いているということは、それだけ可能性があるということである。自己検閲が働いているということは、平明達意の表現のための必要条件なのである。
そして、私も自分の表現の稚拙さと、それに対する批判を「恐れているからこそ」 こうして、表現していこうと思っている。