それほどまでに言論は自由であるべきだろうか
試しに「ブログ始めました」をGoogleで検索してみたところ、 約 220,000,000 件の検索結果がヒットした。
無数のブログには、無数の「ブログを書く理由」があるだろうが、 私の場合、その理由は「自分自身のプロフィールを作成すること」にある。 このブログを見て、私がどんな人か、どんな思想を持っているか知ってほしい。 言ってしまえば「自己顕示欲」にほかならない。
ところで、最近の成功哲学では、以下のようなものがもてはやされている。
- 考えるより行動せよ
- 物事はシンプルに考えろ
- いらないプライドを捨てろ
私はこれらの考えに異議をとなえたい。
考えずに行動して成功したとしても、その「考えなしの部分」の尻拭いをした人が必ずいる。熟慮せずに行動し、したり顔をしても、どこかでその配慮の無さに傷ついている人がいる。
自由権が保証されている現代では、批判を受けると事あるごとに「言論の自由だ」とか「表現の自由だ」と反論する人がいるが、これらの権利は比較的新しいものであって、それほど当たり前だと考えていいものではないし、これらの権利があるからと言って自分の行動がもたらす結果を考慮しないのは、あまりに無責任だ。
行動力が悪だといいたいわけではない。行動力はエンジンであって、必ず必要だ。だが、どうしてエンジンを制御するための「思考」がこれほど軽視されるのか。「ものづくり大国」と呼ばれた日本が、いつの間にか技術面でアメリカはもちろん、アジア圏の他の国々などにも引けを取り出したのはなぜだろうか。私は、ある部分では、行動力ありきの考え方に責任があるように思う。
やれ起業だ、やれ社長だ、やれ上場だ、とやってきた人が肩で風を切る時代だが、革新性や客観的に賛同可能な思想のないビジネスが、後世になにか残すはずがない。
「ほんとうにこれぐらいでいいのだろうか」
「こんなものを世にだしたら恥ずかしくないだろうか」
「これで誰かを幸せにできるだろうか」
こうした考えは「批判を恐れる心」として蔑まれているが、一方で、価値あるものをふるいにかけるフィルタとなる。本当に行動力が必要なのは、このフィルタにかけた後である。
批判への恐怖から、より賛同可能な方法・考えを練り、自分自身の考えの欠点を修正し、 その結果、恐れを乗り越えるだけの洗練された案が浮かんでくる。「恐れるな」は間違いだ、「恐れなくなるくらい考えろ」が正しい。 だからこそ、
- 行動する前に考えてしまう人
- 物事を複雑に考えてしまう人
- プライドが高くて、失敗したくない人
そんな人こそ、行動するに値するのである。
私たちの世代は子供の頃から、
「日本人はディスカッションが下手だ」
「日本人はもっと積極性をもたないと国際社会でやっていけない」
と言われてきた。だが、これらの言葉の意味を「なんでもかんでも言う方が正しい」という意味にとらえてはいけない。ディスカッションの場では、自分自身で「今ここでするべきではない発言」や「調べれば分かる質問」や「他人を傷つける言動」などを抑止する責任がある。それに、実際にその場で発言する必要の無い人間がいることも珍しくはない。ただ、その抑止が働き過ぎると有益な考えまでもが封殺されてしまうことがあるため、「極力」発言しましょう。ということである。
これは、裏を返せば、「黙っている人が意外とよい考えを持っている事が多い」ということに違いない。
一躍時の人となったSteve Jobsの言葉
Stay hungry,stay foolish.
は、「バカ」肯定では決して無いはずだ。「バカに<ならないといけない>人」はどんな人か。「<今は>バカではない人」だ。悩み、恐れ、考えた人こそ、「あえて」バカになろう。行動しよう。 そういうメッセージだと思いたい。だから、私も、名も無き一個人の自己顕示欲丸出しの「バカ」なブログを書いていこうと思う。