2014-05-05(月) | -- (permalink)

中途半端な否定

「私はネガティブなんです」と嬉々として喧伝する者が、如何に中途半端な否定を実践しているかを指摘することはいとも簡単である。それは、彼らが「自分自身の否定的傾向について、肯定している」という中途半端さを持っているからだ。これは、負数に正数を掛け続けるようなものであり、その符号は負で在り続ける。私はこれを誤解されたネガティビズムと考える。

現実は残酷である

はじめて自らに対して否定の目を向けた時、確かに世界は地獄の様相を示す。己を客観的に観察した時、誤魔化しようのない欠陥が幾つも見つかるからだ。そして、唯物論の世界を信じるものは、その欠陥をあるがまま見つめ耐えるしかない。唯物論者は嘘偽りによって自らを慰めたり、誰かの慰めの言葉に耳を貸すことはできない。たとえ幸せであったとしても、盲目的な考えに支配されているものは不幸であり、我々はそこから解放されなければならない。しかし、そのようにして解放された先の、物事があるがままである地は恐ろしく残酷だ(私の尊敬する優れた哲学者たちは、その残酷な世界で哲学をどう働かせれば絶望することなく生きていけるかを模索している人たちである)。こうした容赦無い否定に自らを晒し続けることで、自信は喪失し、他者からの信頼も失う。その中で、気づくことがある。

「この否定は果たして私の役に立っているのだろうか。」

真に否定的であるとうこと

否定に対し否定の目を向けた時、何が起こるだろうか。肯定的な人間になったといえるだろうか。そうではない。自分の精神活動を否定する行為によって、己の限界を打破しようとしているわけで、あくまで否定的な人間のままだ。だが、これは大きな進歩である。自らが「否定そのもの」ではなく ...


2014-04-30(水) | -- (permalink)

はじめに。

昨年末から休日を図書館で過ごすことが多くなったが、お陰で有用な本に出会う確率が大幅に上がった。せっかくなので、備忘録も兼ねて有益な本を紹介していきたい。ちなみに、図書館を利用しても本を買わなくて良くなることはない。むしろ、手元に置いておきたいと思う本が増えるので、本に対する投資は増えた。

情報格差、おいしい?

プログラマとして自分の価値を高めるためには、やはり情報格差を利用したい。つまり、入手できる情報が他人より多いということで差別化を計りたいのだ。そのためには、英語は必須となる。英語で検索し、英語で一次情報にあたることができるだけで、それができない人よりも鮮度も精度も高い情報を得ることができるというのは当然のことだ。このような理由から、英語学習の熱意が高まる中で、この本に出会った。

(ちなみに、まつもとゆきひろさんは「情報格差」より「情熱格差」が重要だと仰っていた。日本のような出版・翻訳が盛んな国では、情報格差というのはかなり少なく、むしろ情熱の有無が格差になってくるだろうというご意見である。これは最もであるが、とりあえずは情報格差があるという前提で話を進めたい。)

外国語学習の科学。

内容はいたってシンプル。第二言語習得(SLA)の専門家である著者が、その理論を一般向けに紹介した本である。まぁ、要するに「条件Aと条件Bで外国語学習を行わせた結果、統計的に有意味な差が認められましたよー」といった類の情報が沢山紹介されていると思っていただければ良い。簡略化しすぎて、怒られそうではあるが...。ところでこの本 ...


2013-08-19(月) | -- (permalink)

映画『きっと、うまくいく(3idiots)』を見た。

序盤は、ボリウッド特有の唐突なミュージカルシーンと、とてつもなく大味の筋書きに慣れなかった。しかし、終わってみると、伏線もきれいに回収され、結末もすがすがしく、前評判通りの快作だったといえよう。

ランチョーという主人公を通して明らかにされる、この作品のメッセージは「誠実さ」に尽きる。彼は納得のいかないことをそのまま放置することが出来ず、しがらみに縛られて不誠実な行動をとる人間にひたすら突っかかる。この彼のお節介が、様々の愉快な事件を巻き起こし、また周囲の人々を変えていく。

勇気をもらえた一方で、どうしても違和感が拭い去れなかった。

主人公ランチョーはの人間像は理想的だ。彼は、このようにありたいと思うと同時に、そのようにあろうとできる。一方で、ランチョーの周りの人々はとても現実的だ。彼らはインドという国に住みながらも、抱えている問題は我々日本人とほとんど変わらない。彼らの抱える問題は、

親の希望と自分の希望が乖離していること
宗教を盲信してしまうこと
貧乏な家族の生活を背負っていること
他人の期待に必要以上に答えようとしてしまうこと

など、万国共通の問題である。ランチョーはこうした問題を抱える人間に、自分に正直に生きるように勧める。ではなぜランチョ―はしがらみから開放され、自由に振る舞うことができるのか。それは、「本当に」彼にしがらみがないからに他ならない。

ランチョーには家族がいない。また、彼は家庭を持とうとしない ...


2013-07-21(日) | -- (permalink)

先日、岡本太郎美術館へ行った。

正直なところ絵には疎い。全くのデタラメを抽象画といわれて、納得してしまうことは充分ありえる。そして、仮にそれが美術館に置いてあったとして、その絵の前で手を組んで頷いたりしてしまったら、これほど滑稽なことはない。だから、岡本太郎が描くような抽象画にもある程度距離をおいて対峙したところ、次々と矛盾した感想が頭をもたげてきた。

やっぱりこんなのはデタラメだ。

⇔デタラメに見えるが、一貫したモチーフがあるように思う。解説によると、考えぬかれた構図があるらしい。

親も金持ちで、パリに留学している。結局、金か。

⇔岡本太郎がフランス語でしゃべっている映像が展示されていた。かなり努力したのでは。

もし、これが適当だとしたら、全く無価値だ。

⇔これだけバカでかくて派手な色の作品だとどうしても気になってしまう。気になるということはそれだけで価値があるのでは。

アバンギャルドな人だ。
⇔TVに出演し、大衆に迎合した人だ。

画の練習などしなくてもこんな画は描けそうだ。
⇔かなり立派な肖像画も描いている。

いったいどうしてこれほど評価を定めることが出来ないのかと困惑していると、それに答えるかのように、岡本太郎の芸術理論を紹介している動画の中で、こんな言葉にぶつかった。

「矛盾を矛盾のまま書きだすのだ。」

ああ、そうか。と、これで全てが納得いった。なんてことはない、私が最も大事だと思っている考えを岡本太郎は体現したわけだ。

私は同じ考えを「自己矛盾を解消してはならない」というポリシーとして所持していた。

自分を割り切るというのは魅力的な考えだ。例えば、こんなふうに ...


2013-06-17(月) | -- (permalink)

私はよほど気心の知れた人とでないと、芸術の話をしたくない。
ましてや、親しくもない人からそういう話を聞かされるのは耐え難い。

芸術の価値というのは受容者にとって全く異なってくる。ある人にとって価値のあるものが他の人にとっても価値があるとは限らない。だから「自分が良いと思っているものを他人も良いと思うだろう」と考えることは大変浅はかである。すぐに宗教や政治の話をする人が愚かであるのと同じ理由で、すぐに芸術の話をする人間は愚かなわけである。

私のことを芸術嫌いと考える人もいるかも知れないが、こんな私も大学では美学を専攻し、ほとんど毎日ピアノを演奏するような生活を送った。だが、こうした「批判」と「実践」の毎日は、結果として自己矛盾を産むばかりであった。

どうして、作者不在の中で作品の価値について述べることができるのだ。

ある作品が、ある作品より重要だと言うことができるのだろうか。

一度も演者、作り手になったことない大学教授が、「彼らが最も価値を認めていない作品」に対してさえ語る権利があるのだろうか。

こんなことを考えるうちに、「芸術の価値」に関して自ら語ることはほとんど辞めてしまった。できないと考えたのだ。根拠のあるものが全てだと考えて、職業にはプログラマを選んだ。芸術についてとやかく口をはさみたがる人から見ると、私は「芸術への関心が薄い人」という風に見えるかもしれない。

確かに、自分にとって価値のあるものが、他人にとっても価値あるものである「可能性は高い」。その可能性を考慮した上で行われる、芸術について語る活動というのは意味があるだろう。しかし、「物事そのものを宣伝する行為」というのは中々に難しい。どうしても「その物事を知っている自分を宣伝する行為 ...


2013-06-10(月) | -- (permalink)

何かに対して、バカだとかアホだとか言うと、「お前はどうなんだ」という議論に持ち込まれることがある。だからはじめに言っておくが、

私もバカ・アホの部類である。

だが、「バカ・アホでもいい」と思うほどはバカ・アホではないし、ましてや、「バカ・アホが世界を制する」みたいな仰天思想の持ち主のようなバカ・アホでもない。

筒井康隆の『アホの壁』の冒頭にこんな文がある。

むろんアホの壁を乗り越えて彼方へ行かぬ限りは成り立たない仕事もある。言うまでもなく芸術という仕事である。芸術的狂気というものは一旦良識から離れてアホの側に身を置かねばならない。それが単なるアホと異なるのは、壁の存在、壁の所在、壁の位置、壁の高さ、壁を乗り越える方法などを熟知していることだ。そのためには冷静な正気を保ちながら壁を認識しなければならない。これができていない芸術は、常識に囚われたつまらないものにならざるを得ないだろう。
\<筒井康隆(2010)『アホの壁』新潮社 p7>

あれほど無茶苦茶なスラップスティックを書ける作家の芸術感がこのようなものであるということは、とても印象的だ(『アホの壁』は、この常識さゆえに、筒井康隆特有の痛快さにはかけるので物足りないのだが)。

私は、個性というのはとても大事だと思っている。過去の財産にアクセスしやすい時代に過去の再生産を行なっても大した価値にはならないからだ。それに、今までに無かったものの見方・考え方や歴史観を生むような個性が、現代日本を覆う民族的な不安を乗り越えるためには必要不可欠だとも思う ...


2013-05-17(金) | -- (permalink)

文章表現に関する、興味深い記事を発見した。

「自分の書く文章は価値がない」を抜け出すライティング・マラソンという方法←自己検閲を振り切って書きなぐるために

書くことは、ほとんど必ず落胆を伴う(仕様だと思っていいくらいだ)。

文章を書く上でかならず障壁となるであろう「自己検閲の壁」をいかにして乗り越えるか、という内容である。まさに今ブログを書いている私にとって、こうした

「書くことによって、書くようになる論」

というのは、当然実感がある。

そもそも、あらゆる作業で、行動が動機を先んじることは珍しくない。

こうした「作業興奮」をものにできるかどうかで、何かを成し遂げれるかどうかが決まる、といっても過言ではないだろう。

ところで、この記事で何よりも興味深いのが〈「作文のつまずき」の現れ方〉という図だ。

作文のつまずき

(出典:『国語科授業の常識を疑う〈3〉作文 (市毛勝雄模擬授業の記録と分析)』p.60)

この図から導き出される結論の中で、最も妥当であるものは、ここで紹介している記事のような、

「自分の文章が無価値に感じる、というつまずきを克服することで、平明達意の文章を書こう。」

というものであろう。だが、同時に私は、この図から別の重大な点を読み取った。それは ...


2013-04-24(水) | -- (permalink)

試しに「ブログ始めました」をGoogleで検索してみたところ、
約 220,000,000 件の検索結果がヒットした。

無数のブログには、無数の「ブログを書く理由」があるだろうが、
私の場合、その理由は「自分自身のプロフィールを作成すること」にある。

このブログを見て、私がどんな人か、どんな思想を持っているか知ってほしい。
言ってしまえば「自己顕示欲」にほかならない。

ところで、最近の成功哲学では、以下のようなものがもてはやされている。

私はこれらの考えに異議をとなえたい。

考えずに行動して成功したとしても、必ず、その「考えなしの部分」の尻拭いをした人がいる。

熟慮せずに行動し、したり顔をしても、どこかでその配慮の無さに傷ついている人がいる。

自由権が保証されている現代では、批判を受けると事あるごとに

「言論の自由だ」

とか

「表現の自由だ」

と反論する人がいるが、これらの権利は比較的新しいものであって、

それほど当たり前だと考えていいものではないし、これらの権利があるからと言って
自分の行動がもたらす結果を考慮しないのは、あまりに無責任だ。

行動力が悪だといいたいわけではない。
行動力はエンジンであって ...